冬薔薇の戀

 ふるびて湿った小屋の外では、雨音がざあざあと、屋根や木々を打っている音が聞こえてくる。その水の匂いは、森に溶けだしているのか、小屋の中にゆたかな生命(いのち)の匂いを漂わせていた。
 吾涼と薔子は、このふるびた小屋を、山の森の中で見つけた。
 以前誰かが生活していて、その後、主《あるじ》がいなくなってから長い間放置されていたのか。
 戸棚を開けると、縁《ふち》が割れているが、使用するには事欠かない何枚かの古い陶《とう》の器と、焼成時の気泡が、おもてに浮いている薄黄《うすき》の土鍋がそのままにされていた。
 囲炉裏《いろり》もあるにはあるが、湿った空気の中、火を焚《た》こうにも失敗し、炎で身をあたためることは不可能だった。
 恋人のように抱きしめ合ったことで、何となく気恥ずかしくなってしまい、話すきっかけを失い、二人共黙ったまま小屋で雨をしのいでいた。
 吾涼は胡坐《あぐら》をかき、薔子は正座をして、ふたりとも無言だった。小窓から漏れる雨と、外の様子を見続けている。

(けっこう、深《ふこ》う切ったな……)

 吾涼は自分の左てのひらを広げ、無表情にみやった。かるく動かすことはできるので、ゆるくひらいたり、閉じたりを繰り返す。
 すると、それに気づいたのか、薔子が眉を寄せ、心配そうな顔でこちらを見ている。

「大丈夫や。こんなもん気にすんな」

 まなこを閉じ、苦笑いを返す。
 薔子は膝を詰め、身を前に進めると、吾涼のかたわらに近寄った。
 そして彼の左手のゆびさきを優しく両手で取り、傷が見えるように己に近付けた。

「薔……」

 彼女のひとみは揺れ、伏し目になっている。その憂《うれ》えた表情がつやめかしく、息を呑んだ。
 薔子は一度まばたきすると、くちびるを噛み、意思の強さをそのひとみに宿した。そしてすっくと立ちあがると、自分の着物の裾を、吾涼の目の前で引き裂いた。
 蘇芳色《すおういろ》の着物の端が、あざやかに裂かれてゆく。
 唖然となり、見上げた薔子の表情は、決意の色に凪《な》いでいた。

「おま……」

 ふたたび吾涼の前でしゃがみ、前屈みになると、彼の手に、自分の切った着物の裾を包帯代わりに巻き始める。
 丁寧に傷を覆うと、端をきゅっとやわらかく結ぶ。

「これでええ」

 吾涼の手に視線を落としたまま、にんまりと笑う。
 吾涼は唖然として己の手を見つめたまま、ゆびを開けたり離したりする。彼の手首に、着物の臙脂色《えんじいろ》が宿る。
 着物の包帯のおかげで、幾分痛みはやわらいだように感じる。
 そしてふっ、と笑うと「おおきにな」と礼を言った。
 薔子は何も言わず、ただ瞳をゆらした。
 ふたたび静かな、だが先ほどよりも心地良い沈黙が訪れる。

 吾涼は、さあさあと雨音を立てる小窓から薔子に視線をうつした。何か話題を出して声を掛けようかと思っていた刹那、目に入ったのは、正座したまま前屈みになり、うとうとと、まぶたを落としたり開いたりしている眠気(ねむけ)まなこの薔子の姿であった。
 そしてついに、まぶたは重く閉じたまま開かなくなり、すっと寝入ってしまった。
 少し口を開き、すうすうと寝息を立てている。
 小窓から漏れる鈍い雨のひかりが、彼女のつややかな髪のすじや、まつげの先をうっすらと照らしていた。
 彼女の着ていた道行《みちゆ》きは濡れており、乾かすためにすでに脱いでいた。吾涼もとんびコートを脱いでいる。
 気付けば彼女の肩は、寒いのだろうか、眠ったまま、かたかたと震えている。
 無理もない、あんなに雨に濡れ、着物も着替えないままである。体も雨のつめたさが浸透し、冷え切っているだろう。
 吾涼は近付いて、その細い肩に手を当てた。やはりつめたくなっている。

(このまんま寝かすんは危ないな……)

 逡巡した後、先ほど押し入れの中に、使いふるされた、ひとそろいの布団を見つけていたことを思い出した。
 深く考えず、立ちあがり、押し入れに向かった。

 薔子は夢を見ていた。
 幼い日、結核で亡くなった両親を、姉と見送った実家の寝室。
 その後、姉と引き離され、奉公に出た屋敷でのつらい日々。
 先輩女中には陰湿ないじめを受け、脂ぎった顔の屋敷の主人には、いやらしい視線を日夜送られて、おびえながら過ごした。
 辛抱の糸がぷっつりと切れ、つめたい豪雨の降る日、ひとり逃げ出してさまよった。
 そして百合子のやわく白い手に、ちいさな手を取られ、辻本家にやってきた。
 吾涼に熱い手でふれられた。あんなにあつい人肌を感じたのは初めてだった。
 そして彼の、愛を受けた。
 かりそめのあいを。
 分かっていたのに、熱い奔流となった彼への押さえきれぬ恋情を殺すために、また孤独を選び、山に入った。
 しかし、彼に見つけられ、今、共にいる。
 自分は今、天国にいるのだろうか。からだ全体が優しいぬくもりに包まれている。先ほどの身を切るような寒さは、どこへ行ってしまったのだろう。
 きらきらと白く輝くひかりが、自分を包み込んでいる感覚。
 そのひかりに、さらに深く身を埋《うず》めたいと思い、赤子のようにまるくなって頬を寄せた。
 するとさらにひかりは、強い力で薔子を包み込み__。

 眠っている薔子が、自分の首に頬を寄せてきたので、吾涼はさらに彼女を強く抱きしめた。ただ冷えた体を温めてやりたいという、純粋な想いだけがそこにはあった。
 ぴったりと体をくっつけてから、長い時間が経過した気がする。
 思えば女と一晩中一緒に寝るのは初めてかもしれない。寅吉に誘われて、花街の深みで遊んだことが無いわけでない。だが、事が終わるといつもすぐに気だるくなり、朝を共に迎えないまま屋敷に帰っていた。

(女を抱きながら寝る夜いうんは、こないに安心するもんなんか)

 言いようのない安心感が心に湧いており、吾涼はその確かなあたたかさに感動していた。
 自分は妻帯《さいたい》したことがないし、今後もする予定は無い。だが、毎日夜を共に過ごしている夫婦というものは、このようなものなのであろうか。
 そんなことを考えている自分に対し、冷静になって俯瞰《ふかん》して見ると、信じられぬ心地になる。

(俺がこないなこと、考えるときが来るなんてな)

 ふっ、と微笑む。
 自分の顎の下には眠っている薔子の顔があり、富士額がくちびるのすぐ前にある。
 彼女の頭を抱き寄せ、その白い額にくちづけた。
 いとしさを込めたくちづけであった。
 ふと触れた足先が冷えていたので、自分の足をからめ、温めてやろうとする。
 腕に抱いた彼女のやわらかさ、ぬくもりに吾涼も癒され、いつの間にか眠っていた。
 吾涼は、夢を見なかった。しんとした暗いとばりだけが、彼の中に漂っていた。
 
 雨は止み、時刻は深夜である。
 ごーん、ごーんという除夜の鐘の音が耳朶《じだ》を打ち、薔子は重いまぶたをゆっくりと開けた。
 目の前に形の良い喉ぼとけがあり、それが上下している。

(あ……)

 寝ぼけまなこで視線を上にやると、長いまつげを伏せて口を少し開け、眠っているうつくしい男の顔があった。
 この男は、見覚えがある。
 いや、覚えがあるどころか、この男には、何度も抱かれている。
 熱い肌の感触、湿った吐息、己の白い体が、すべてを覚えていた。
 はっと瞠目し、身を動かそうとする。

(な、なんで吾涼さんが……!)

 しかし、背を強く抱かれており、動くことが出来ない。

「ご、吾涼さん!?」

 息を殺し、彼にだけ聞こえるような声で話しかける。
 それが聞こえたのか、吾涼は「う~ん」と唸った後、形の良い眉をハの字にしてうっすらと目を開けた。

「な、なんで……っ」

「薔子……起きたんか」

「起きたんかって……」

 抱かれている腕が当たっている部分から、熱がからだに浸透し、首にあがり、気付けば顔は真紅の薔薇のように、まっかになっていた。以前何度も肌を合わせた仲だというのに、まるでおぼこい反応である。
 彼が起きた瞬間に少し拘束がゆるんだのを察知し、半身を起こして離れようとする。だが、さらに強い力で腕をひかれ、またそのたくましい腕の中に捕らわれた。

「なっ……!」

 頬にひたりと吾涼の胸が当たる。湿ったような、火照る熱さだった。その温度で、薔子は彼女自身が冷えていることを知った。

「お前の体は冷え切っとる。まだ温まった方がええ」

「そんなこと言うたかて……」

「いまさら恥ずかしいこともないやろ」

淡々とした口調で吾涼は言った。

「なっ……」

 薔子は目をかっと大きく見開いた。
 改めて口に出されると、耳まで赤くなる。

「もうちょい一緒に寝て、回復したら辻本家に帰るで。それでええな」

 唐突に言われ、とまどって言葉が返せない。

「奥様も横手さんも、うちなんか許すはずありまへん。帰れるわけ、あらしまへんやろ」

 ふっと吾涼はわらう。

「お前は辻本の女中の中で一番手際がええ。仕事も早い。よう働いてくれとるて、奥様も横手さんもおっしゃってたで。……俺もそう思てるしな」

「えっ……」

 意外だった。自分は目の前の仕事をいつも必死でこなしていただけだと思っていたのに。
 裏でそんなことを言って、褒めてくださっていたとは。
 うれしさで泣きそうになるのを、上唇を噛んでこらえた。
 吾涼はそんな薔子を見つめると、彼女の額を撫でた。

「……おおきにな。お前が描いてくれた椿の絵。うれしかった。あんなもん描いてくれた女のこと、気にせんでおくほうが無理や」

 はっと吾涼の顔を見ると、切なげな笑顔で自分を優しく見つめていた。

「絵、見られてもうたんですね……。恥ずかしいわ」

 吾涼は、うつむいて睫毛をふるわせる薔子のことを見つめながら、素直にうつくしい女だと改めて感想を抱いた。白い頬は桜色に染まり、黒髪は線を描きながら後ろに流れている。
 除夜の鐘の音が鳴り響き続いている。近くに寺でもあるのだろうか。
 ぼんやりとその音を聴きながら、薔子のなめらかな赤い頬を見つめ続け、やがてあることに気付いた。
 この女に対する、この胸を締め付ける、だがあたたかい、この感情は何なのかということに。

「俺はきっと、お前のことが、すきなんやな……」

 かすれた声で、唐突に言われた意味が分からず、薔子は、はっと顔をあげて彼を見る。

「何言うてますのん。吾涼さんがすきなんは、百合子様やない……」

 作り笑いで寂し気に返すが、吾涼はより真剣な顔になり、自分を納得させるように頷いた。薔子から視線を逸らす。

「お前が、すきなんや。俺は。お前が部屋で椿の絵ぇ描いてるん見た時から、いや、お前と初めて()うて、手ぬぐいで体(ぬぐ)うた時から、女としてお前を見て、意識しとった。俺はずっと百合子様を好きやと思うとった。確かにあのひとのことを愛しとった。今でも変わることなく。でもそれは戀やなく、愛やったんやろうな。信仰としての、愛やったんや」

 苦笑いをこぼす。

「自分でもうまいことよう言えんけどな……」

「せや。何おかしなこと言うてるんや」

 とまどい、照れて突き返す。いきなり抱かれた状態で、片戀の相手から告白されるなど夢でも見ているのだろうか。

「吾涼さんがうちのこと、すきなわけない。こんなうちのことなんか。百合子さまと全然ちゃうやないか。汚《けが》れた女や。なんで、なんでそないなこと言い出すんですか……っ」

 言いながら涙があふれ、吾涼の胸を叩いた。

「俺も自分のことがようわからん。お前が辻本を出て行ったときに、焦った。椿の絵ぇ見て、胸が苦しくなった。俺に抱かれたがったお前を抱いて、ほんまにお前を抱きたかったんは俺のほうやもしれんと思った。……せや、すきでもない女を、こない山奥まで追いかけるわけがない。俺はお前に惚れとるんや」

「吾涼さん……っ」

 羞恥とうれしさで、脳内がめちゃくちゃになった。
 __もう体中が真っ赤に染まっている。
 __満開の薔薇のように。
 折り曲げた腕で吾涼の胸を強く押し、気恥ずかしさから離れようとした。
 だが吾涼はそれを許さず、薔子の両頬を両手で挟む。

「薔子、綺麗や」

「なっ……」

 目の前で、すきな男に告げられ、思考が停止する。

「可愛い」

 もう頭が真っ白になる。硬直すると、くちびるに吾涼のくちびるが、優しくふれた。あまさも苦さも感じないような、吐息を交わすだけのふれかたで。それを何回か繰り返されると、徐々に薔子の体からは、力が抜けていった。

「怖ないか?」

 吾涼はうすくまぶたを開け、薔子の様子を確かめていた。
 薔子の瞳は、うるんでいた。
 「へえ」と薔子はちいさく返した。
 吾涼は先ほどよりも強い力でくちびるを重ねた。今度はちゃんと、溶ける飴のようにあまい味がした。
 薔子はまぶたを閉じた。まなじりから、透明な涙がひとつ零れる。
 吾涼は彼女の頬から手を離すと、頭と背に回し、より強く彼女を抱き寄せた。
 何度も激しいくちづけを交わした後、互いに湿った着物を脱ぎ合い、座ったまま裸で抱き合った。からだが熱くなってゆく。
 薔子の乳房を優しく揉みしだき、その頂点を包み込むように、舌先でやわらかく舐める。薄紅《うすくれない》に茶をひとしずく混ぜたような健康的な色をした乳輪を、舌で円を描くようにゆっくりと舐めまわしてゆくと、薔子の体のふるえは徐々に大きくなった。
 吾涼はそれを上目遣いで確認していた。
 胸の頂点を、下から軽く舐めあげる。

「っ……!」

 薔子はびくりと体を一度跳ねさせると、力が抜けたのか、吾涼の頭に顔を埋《うず》めた。

「これだけで活《い》ったんか」

 低くちいさな声が顔の下から聞こえる。薔子は息を整え、恥ずかしがるように吾涼の髪の中に鼻とくちびるを寄せた。吾涼の匂いが濃くなり、薔子を無意識に興奮させる。
 吾涼は、頭の上に覆いかぶさってきた薔子を下から支えるように、彼女の胸の間に顔を埋めた。ふわりとやわらかく湿り気のある薔子の胸に包まれ、吾涼の眉間の皺がゆるんでゆく。
 何度か貫かれ、薔子がひときわ高くあまい声を出した後、ゆっくりと吾涼が入ってきた。
 やわらかな薔子のからだに、熱く硬い吾涼が染みて溶けてゆく。
 様々な体位で何度も求めあっても、終わりをいつ迎えるのかが分からない。まだ、もっとを繰り返す。
 互いに際限がなかった。

__心から戀していると判断した女との交合《こうごう》は、これほど良いものなのか。
 吾涼は、薔子のうねる白い腹を見つめ、足首を舐めながらそう思った。
 一度目に抱いた時のような荒々しいものではなく、互いの体のすみずみを慈《いつく》しみあい、潮が満ちてはまた引いてゆくような甘さがある。
 吾涼は、薔子が一度絶頂を迎えると、彼女が荒くついていた息を整え、落ち着いた瞬間に、彼女の体の向きを変えて再度突く、ということを繰り返していた。
 腕を使って腰を持ちあげて、尻を己の側に突き出させる。己の下半身に、ひたりと白い桃がくっついている光景は、何度みても血をたぎらせる。
 そのたびに薔子の声は、泣くようなものへと変わってゆく。瞳は瞳孔が開いているのではないか、と思うほどに大きく見開き、まなじりから涙をあふれさせる。見下ろした薔子の背筋は、一本の川のようだった。汗の粒が薄闇の中できらめいて、その河辺に咲く白い小花に見える。
 彼女が死んだら、このなめらかでうつくしい背中は誰も目にすることがないのだろう、と、自分でも変なことを考え、両手を広げて、白い星を肌に浮かべたようなつやのある背を撫でると、想像していたとおり、あたたかく湿っている。
 薔子はそれすらも感じてしまうようで、吾涼が撫でるたびに背をひくつかせていた。
 時折首《こうべ》をめぐらせて、吾涼の顔を確認する。
 その頬は赤く染まり、ひとみは涙の膜に覆われており、小窓から差す月あかりで、きらきらと煌めいている。挑むようだった。
 吾涼はそれで、さらなる嗜虐心《しぎゃくしん》に駆られ、うすく舌先を出して己の上唇を舐めた。
 互いにたがいの美に対して、感情を昂《たかぶ》らせられる。
 ふたりは元々、男女としての相性がとてもよかったのだ。 
 いつの間にか、どこかの寺で除夜の鐘が鳴っていた。肌に響く音が鳴るごとに、一層行為は激しさを増し、いつしか小窓から朝日が差していた。
 薔子の白い肌には玉の汗が浮きあがっており、吾涼も汗で前髪が額に張りついている。

「ああ、もう夜が明ける……。無理させたな」

 うっすらと開けた眸《ひとみ》に涙を溜め、荒い息をついている薔子を見下ろした。吾涼は彼女を貫いたまま体を折りたたみ、彼女のくちびるに自分のそれを重ね、一層深く突いた。

「くぅうっ……」

 確かな質量を、薔子の奥深くまで侵入させる。彼女の体は、さらに粘ついた蜜を増し、吾涼のそれをとらえて離さない。より奥へ、おくへと誘い続ける。そして、はっ、はっと鼻から掠れるような息を漏らす。
 薔子の艶やかなあえぎは、吾涼の舌に掬《すく》いとられた。
 吾涼の頬と鼻すじに朝日が当たり、白い光と黒い影をくっきりと作っている。
 眸だけがただ同じ色を宿し続けていた。
 新年の朝は、清らかなそよ風を小窓から中にもたらし、抱きしめ合うふたりの体の輪郭を白く光らせていた。
 吾涼は薔子を強く抱きしめながら、汗に濡れた顔で、これ以上ないほどの満足した笑みを浮かべてまぶたを閉じた。