※ ※ ※


文化祭当日。

「八王子、教師役ばっくれやがった」
 千住くんがむすっとして言った。今日も美術部にいてくれている千住くんは、単語帳を持ち出してバックヤードで勉強するつもりのようだ。余念がない。

「まあいいけど。あいつ居ないと自己採点がはかどるし。自分で見直しできるし。でも解説してくれる人が居ないと分かんないところは分かんない」
「八王子くんと連絡つかないの?」
「ん。既読スルー。んのやろ……」
 千住くんはまたむすっとして、単語帳を開いて赤シートをひらひらさせた。
「あいつ、普段から有朱、有朱ってうるさいくせにさぁ。こんな大事なときに」

 わたしは完成した天使の絵を見上げて、安堵のため息をつく。なんとかものになった共同制作の絵は、わたしの名義で発表することになった。
 天使はラッパを吹きながら上を目指している。背景は海の底にも見えるし深い色の青空にも見える。だから天使は、海底から水面を目指すようにも、空の高みを目指しているようにもみえる。いろんな解釈ができる絵に仕上がったと思う。
 天使は男か女か判断がつかない、中性的なあんばいを目指した。

「いい絵になりましたね」

 あずきさんがほうとため息をつく。
「もしものことがあったときのために、【chess】の人員を警備につけています。ご安心ください」
「そこまでしていただかなくっても……」
「もしものためです」
 あずきさんは言いつのった。
「何が起こるか分かったものじゃありません。油断は禁物です」

 あずき先輩は何をそんなに気にしているんだろう?

 わたしは展示の絵を順繰りに見た。わたしの絵が置かれるはずだった一角は、アンケート置き場になっていて、すこし、寂しい。

「千住白兎はずっとここに居る予定ですか?」
「ん」
「よろしく。有朱さんはカレシさんとお出かけですよね?」
「はい、シフトが終わったら」
 あずきさんは目を光らせて、小さな子供に言い聞かせるようにわたしを見た。
「絶対にカレシさんと離れないように」
「は、はい……?」
「絶対に、離れないように」

 千住くんは単語帳を開いてどっかり座っている。わたしは、やってくるはずのお客さんを待つために気を引き締めた。


 でも、流石にヤンキー高校、なかなかお客さんなんかこない。
 わたしが暇を持て余していると、外の方で何か騒がしくなってきた。

「どけや! 俺ら【騎士団】だぞ!」
「ここを通すことはできない。ここから先は美術部だ!」
「だからどけや!! 【女王】の命令が聞けねえってのか!」

 怒号。悲鳴。乱闘の音。

「何?」
 あずきさんが戻ってきて、わたしに向かって叫ぶ。
「ここは危険です! 千住白兎とともに離れて! カレシさんと合流してください!」
「な、なんでですか!?」

 わたしは勢いで立ち上がった。あずきさんは髪を振り乱して、首を横に振った。

「【chess】と【騎士団】の抗争が始まってます!」
「なんで⁉」
「疑問はもっともですが、今は逃げて! 絵だけでなく、貴女も危ない目に遭いますよ!!」

「行くよ」
 涼しい声で千住くんがいい、わたしの手首をつかんだ。
「えっ! でも絵は」
「【chess】が守ります! 早く行って! 奴らの狙いは貴女です!」

 あずきさんの叫びに後ろ髪を引かれながら、私たちは廊下に走り出た。
 廊下は大乱闘のさなか。あちこちで殴り合い、蹴り合い、巻き添えを食らった人が逃げ惑い……大混雑の中で、つかまれていた手首から千住くんの手が消えている事に気づくのに時間がかかった。

「千住くん! 千住くん?」
「も、守野さん! 守野さーん!」
「千代田くん?」

 どこからか聞こえてくる声に耳を澄ます。怒号と悲鳴の間に、千代田くんのか細い声が聞こえてくる。

「守野さん! 逃――」
「千代田くん、どこ?」
「にげ――」
「千代田くん?」

 と、そのときだった。そのとき――。




「やぁっと見つけた、かわいい有朱(アリス)ちゃん」
 猫なで声の男の声がそう言って――わたしは口を塞がれた。甘い匂いに気が遠くなる。

「良い気持ちになりましょうね……♡」