Anonymous〜この世界にいない君へ〜

紫月の頭には、夏の日に和食屋でアノニマスと偶然会った日のことがあった。あの和食屋は少々値段が高い。頻繁に庶民が食べられるものではないのだ。

「あの時は編集長からの誘いだったからな。あの人は高い店を使いたがるんだよ。いつもはカフェやファミレスが多いぞ」

「そうなのか。あっ、先にメニュー見て決めてくれ」

紫月はメニューを手渡し、アノニマスはペラペラとメニューを見ていく。数分後、紫月とアノニマスはそれぞれパスタとシェアをするためのサラダなども注文し、料理が来るのを待った。

「……それで、今回はどういう事件だ?」

水を一口飲み、アノニマスが訊ねる。紫月はいつものように口を開いた。

「一人の男が殺害された。ヘンゼルとグレーテルに見立てられてな」

「童話殺人か」

「ああ。殺害されたのは横道康成。麻薬売買で何度も逮捕歴がある」

淡々と紫月は被害者の名前を口にした。しかし、目の前にいるアノニマスは違った。彼女の手から水の入ったグラスが滑り落ちた。