戦争が激化し始めると、優香がそう頻繁に家に帰ってくることは困難になった。
優香に会わない日々が続き、哀花はまるで両親と3人家族であるかのような生活を強いられた。
それは、哀花にとって思っていた以上に苦痛だった。
優香がいないためか母親は暴走し始め、哀花にプレッシャーを与えるため哀花の成績の推移をグラフ化し、紙に印刷して、壁に貼った。
休日には哀花の部屋に監視カメラを設置し、勉強しているかどうかを常に記録した。
食事中も、哀花が何も悪いことをしていなくとも、厳しい言葉を投げ掛けるようになった。
「あんたなんか産まなきゃ良かった。お金の無駄だわ」
しかし、何を言われても哀花は笑顔だった。
「ごめんなさい」
文句1つ言わず、笑顔で謝るのだった。
隣にいた父親は、この頃から哀花を不気味に感じるようになった。
哀花には“反抗期”というものが全く無かったからだ。
哀花は徐々に、静かに、内側から壊れていった。
泰久の言葉を拠り所として明るく生きていた哀花の崩壊は、この頃から再開した。
姉に会う機会が極端に少なくなった分、哀花の中の優香のかたちは歪められてゆき、優香の悪い部分ばかりを肥大化させた、現実の優香とはかけ離れた優香像が、哀花の中に存在するようになった。
哀花は自分の中にある優香への好意を殆ど忘れ、その内に憎しみばかりを成長させていった。
哀花には優香を恨むことでしか――その状況を誰かのせいにすることでしか、自分を楽にすることができなかったのである。
ある晚、庭の池で泳ぐ鯉を眺めていると、哀花は不意に後ろから声を掛けられた。
「ねー。ちょっといい?」
ロートーンの甘い声だった。
その男が優香の恋人の1人であることを、哀花は知っていた。
夏だというのに黒い長袖の服を着たその男は、ライトブラウンの髪と青い瞳を持っていた。
戦争が始まってから殆どの欧州人は自国へ戻ったから、まだ残っているのは珍しい。
「優香が見当たらないんだよね。彼女のよく行く部屋を知らない?」
外国人の割には流暢な日本語でそう聞かれ、哀花は見慣れない欧州人相手に緊張しながらも、そこから見える優香の部屋をおずおずと指差した。
しかし、彼は首を横に振り、「あそこにはいなかったんだよねー」と言う。
(……そもそもお姉ちゃん、今日家にいる日だっけ?)
哀花は疑問に思いながらも、ふと優香がよく行く、この家の秘密の場所を思い出した。
哀花がその場所に向かって歩き出すと、男は言ってもいないのに付いてきた。
広い家の奥の奥にあるその部屋は、優香がたまに閉じこもる部屋で、哀花も入ったことがない。
ドアのようには見えないそれがドアであることを、哀花だけが知っている。
そしてそのドアが、優香レベルの能力を使わないと開かないことも。
部屋の前に立ち、中から何も物音がしないのを確認して、「ここにもいないみたいですね」と振り返った次の瞬間――――哀花は思わず、びくりと体を震わせた。
男の浮かべていた笑みが、悪魔のように恐ろしかったからである。
(……この人、何か、やだ)
その嫌悪感は、本能的な恐怖に近かった。
しかしそのまた次の瞬間には、男は人の良さそうな笑顔に戻っていた。先程の表情が幻であったかと思える程に。
「そっかそっかー。残念、また来るよ」
「……あの、何時に来るって言ってあるんですか?お姉ちゃん時間守る方だから、何かあったのかも……」
「あー、いい、いいよ。そういうの。俺が勝手に来ただけだから、気にしないで」
男は立ち去ろうとして、しかし不意に足を止める。
「君さー、名前、なんて言うの?」
ライトブラウンのルーズパーマが、庭から入ってくる風で揺れた。
「……哀花です」
「漢字は?」
「……哀願の哀に花って書いて、哀花です」
「――哀しい花か。哀花ちゃんにぴったりの名前だね」
その呼び方に馴れ馴れしさを感じ、哀花は僅かに眉を潜める。
一体何をもって“ぴったり”だと言っているのか。
この男は自分の何を知っているのか。
「また来るね、哀花ちゃん」
この出会いが、常にギリギリのラインで必死に“良い子”で居続けた自分の人生を狂わせることになろうとは、この時の哀花は予想もしていなかったのである。
その日から毎夜、男は哀花の家に来るようになった。
優香があまり帰ってこなくなってから、夜に1人で庭を見るのが習慣化していた哀花は、男が入ってくるとすぐに気付いた。
「お姉ちゃんはいませんよ」
哀花は必ずまずそう言うのだが、男は毎度「そっかー」と興味無さげな反応をするだけで、何の用もないはずであるのに哀花の隣に座る。
何度もその男を近くで見るようになってから、2つ気付いたことがあった。
まず、男が泰久と同じくらいの年齢であろうということ。
それから、体を鍛えているであろうこと。
どちらも哀花が見た目から判断したことで、真実は分からないし、聞くつもりもない。
あまり深入りしてはいけないと感じさせるような雰囲気を、男は持っていた。
「毎度のことながら、人の家なのに堂々と入ってくるんですね……」
「優香がいつ入ってもいいって許可してくれたんだもーん」
「……本当に?」
「ほんとほんとー」
疑わしいところだが、一応何らかの形で許可はされているのだろうと哀花は思った。
そうでなければ、優香の結界の中へ入ってくることなどできないはずである。
この男が普通の男であれば、の話だが。
「哀花ちゃんはさー、好きな食べ物とかあるの?」
「……オムライスですね」
「嫌いな食べ物は?」
「……チーズ。体にいいんだからちゃんと食べろって、お姉ちゃんによく言われます」
「へえー?あいつそんなこと言うんだ。ちゃんと“お姉ちゃん”やってるんだねー。想像できなーい」
「……あの。私と話してて楽しいですか?」
「んー?楽しいよ?」
哀花には、この男が自分の好きな食べ物や嫌いな食べ物……そんなくだらないことにそこまで興味があるとは到底思えなかった。
「一体何のために毎晩あなたは、」
「――“ロイ”」
哀花の言葉を遮るようにして言った彼は、薄く笑いながら唇の前で人差し指を立てた。
「あなたじゃなくて、ロイって呼んで?本名だから優香には内緒ね。まぁ、あいつは俺がいくら隠そうと知ってそうだけど」
どうやらロイというのは、男の名前であるらしかった。
「どういうことですか?お姉ちゃんに名前教えてないんですか?カップルなのに?結婚詐欺師……?」
哀花の言葉に、ロイはぷはっと吹き出した。
「詐欺師は優香もだよ。お互い、利用するために近付いたんだからねー」
「はあ……」
「いやあ、舐めてた。俺、優香はもっとチョロい女だと思ってたからさー。でもあれは、俺が想像していたよりもずっと、狡猾で計算高い化け物だった。利用しようとすりゃ逆に利用されそうになる。あんなのが同じ人間だと思いたくないねー」
「……お姉ちゃんのこと悪く言わないでください」
褒めているようでいて貶しているようにも感じられる言葉を聞いて、哀花は嫌な気持ちがした。
一応恋人であるはずのこのロイは、優香を化け物だと言うのだ。
ロイはその青い瞳に哀花を映し、クスリと艶っぽく笑う。
「“良い子”だねー?哀花ちゃんは」
馬鹿にしたような言い方だった。
――まただ。哀花の身に、また悪寒が走った。
ロイには底知れない怖さがある。
「でも、いくら良い子を演じても、俺には分かるよ?哀花ちゃんの、心の内側」
「……読心能力者なんですか?」
「ううん、違う。でも分かる。俺、人間の強い感情には敏感だから。――…君の中にあるのは嫉妬と劣等感ばかりだね」
体の芯の芯まで見透かされているような心地がして、哀花はびくっと体を揺らした。
そんな怯えきった哀花の様子を見ても、ロイは愉しそうに笑みを深めるばかりだ。
「そんな目で見るなよ。可愛がってあげたくなるデショ」
哀花は逃げたいと思ったが、恐怖で体が上手く動き出してくれなかった。
「ねえ、哀花ちゃんが強くなれる方法、俺には分かるよ」
言い聞かせるような口調で、ロイは哀花の頭を撫でた。
泰久に撫でられた時とは全然違う、と哀花は思った。
あの時はあんなにも温かく感じたのに、同じ“頭を撫でる”という行為なのに――この人の手は酷く冷たい、と。
「負の感情をパワーにしな」
哀花の耳元で悪魔が囁く。
「俺が君を育ててあげる」
この時藁にもすがる思いでロイの手を取ったことを、哀花はその後8年間後悔し続けることになる。



