深を知る雨




―――――――姉は。

橘哀花の5歳年上の姉、橘優香は。


何でもできた。勉強も運動も何もかも。

その頃社会的に重視されるようになってきた超能力に関しても、Sランクレベルのものを持つということが学校の超能力検査で判明した。

彼女は日本帝国でほんの数人しかいないSランク能力者として、大人からも同級生からも重宝された。


―――それに比べて哀花は。

周りの人間に言わせれば“何をしたってできない人間”だった。


本当に優香と姉妹なのか不思議に思われる程だった。

「優香は賢い子ね」と、たまに彼女たちの家へやってくる祖母は、優香ばかりを嬉しそうに可愛がった。

両親も、優香のことは特別扱いしていた。

優香は学校でもずば抜けて成績がよく、何をさせてもすぐ上手にできるようになってしまうため、周囲から注目されていた。

哀花もそんな優香の妹として注目されていた。

誰もがきっと妹も凄いんだろうという目で哀花を見た後、哀花が凡人であることを知り興味を失った。

哀花にとってはその失望の目が恐ろしく、前日に不安を抱え込むせいで、テストや重要な発表会の日の当日には決まって体調不良になった。

両親はそれを仮病だと罵り、哀花をやる気のない出来損ないだと言った。

「2人目も楽しみにしていたのに」と悲しそうに言った。


哀花はその両親の言葉も恐ろしく感じ、無理をしてでも本番に向かった。

そして悉く失敗し、両親に怒られ、失敗が怖くなり、恐れるあまりにまた体調不良に陥るのであった。



哀花は負の感情を滅多に表に出さない子供だった。

精神的にギリギリな状態であったのは確かなのだが、それを周囲に悟られないよう明るく振る舞う癖があった。


哀花は控えめに言っても、素直で良い子だった。

親にどれだけ怒られても、できない自分が悪いと自分を納得させ、向上心を失わなかった。


だが哀花が“素直な良い子”でいることができたのは、言うまでもなく、哀花自身が自分の中の負の感情を無理矢理殺していたからだった。

誰もその事実に気付かず、哀花自身すら自覚することなく、ひっそりと哀花の心の内だけで、負の感情は増大していったのである。


「では橘さん、このコンピューターを触れずに操作してみてください」


小学校の必修科目である『超能力学』の時間が、哀花は最も嫌いだった。

上手く超能力を使えないからである。

哀花の超能力の扱いはクラスでも並み以下だった。

哀花は常に、「何でそんなこともできないんだ?」という疑問の目を向けられているように感じていた。


「ねぇ見た?優香さんの妹さん」
「思ってたより……って感じだったね」


少し廊下を歩くだけでも、自分の話題が聞こえてくる。

哀花はその事が嫌で嫌で、時間さえあれば誰もいない学校の資料室に隠れていた。

哀花は、資料室にあった古い鏡を見て、一瞬そこに優香が映っているように思った。

そして、才能では遠く及ばないのに外見ばかりが姉に近付いていくことに不快感を覚えた。

惨めで仕方がなかった。

哀花はその日から、滅多に鏡を見なくなった。

その内、自分が外見上優香に似ていることなど忘れるようになった。


哀花の母親は順位に拘った。

最初の娘である優香が、何においても1番だったからである。

それは例えば、小学校のマラソン大会。

哀花は足の速さに自信がある方では無かったのだが、放課後毎日練習をして何とか3位になることができた。

しかし、哀花の母親はそれでは満足しなかったのである。

哀花と一緒に家に帰る間、母親は何も言わなかった。


家の中に入ったその瞬間、それまで繋いでいた手を離し、冷たい声でこう言った。


「お母さん期待してたのに、裏切られた気分だわ」


哀花はへらりと笑った。


「ごめんなさい」


“出来なくて、ごめんなさい”。


「……何が可笑しいのよ」


母親はあからさまに不機嫌になり、大きな音を立てて椅子に座った。


「あのねえ、そういう空気読めないところもどうかと思うわよ?あんた学校でもそんな感じなの?おかしな子だって思われてんじゃない?」
「ごめんなさい」


哀花は言われた通り、笑うのを止めた。

しかし母親の苛立ちは収まらないようで、彼女は舌打ちをして哀花から視線を外す。


「あんた見てるとイライラする。どうして優香みたいに出来ないのかしら」
「ごめんなさい」
「はぁ、もう、いいわ。どっか行って」


しっしっと犬を追い払うような仕草をされた哀花は、もう一度「ごめんなさい」と言って部屋に上がった。

部屋に入った哀花は、入って左側の壁を見上げた。

沢山の表彰状や、トロフィーが飾られている。

それらは全て、優香が得た物だった。


大事なのは努力ではなく結果だということを、哀花は小学生で知った。

左側の壁には、マラソン大会1位と書かれた表彰状が6年分、当然のように並んでいたのだった。



哀花の父親は控えめな人間だった。

結婚当初研究職を目指す学生であった彼の奨学金を肩代わりしたのは哀花の母方の祖父母であり、それ故に家の中では母親の方が立場が上だった。

彼は哀花に対して可哀想だと思うこともあったが、見て見ぬふりをした。

毎日遅く帰ってくる彼と哀花の間に、親子としての会話は殆ど無かった。

彼が哀花の様子を聞くのは決まって哀花の母親からで、彼女の話を聞いているうちに影響された彼は、徐々に彼女と同じく哀花を忌々しく感じるようになっていった。


哀花の夏休みのある日、彼は哀花がゲームをしているところを見かけ、その時ばかりは酷く苛立った。

優香のような結果を出せないくせに、何故そう悠長にしていられるのか――彼は哀花からゲーム機を奪い、庭に投げ捨てた。

哀花はぽかんと彼を見上げた。

その間抜けた様子がまた、彼の癪に触った。


「勉強はどうしたんだ」
「……今日の分の宿題は終えています。」
「宿題をすることだけが勉強じゃない。少しは優香を見習ってくれよ」
「すみません」
「……もういい。いつまでもそうしているといい。お前には期待していないから」


彼は自分に言い聞かせるように言った。

哀花は心臓を貫かれたような表情をした。


「“出来損ない”は努力したって所詮“出来損ない”だからな」


それは哀花の母親が、哀花のことを話す時によく使用する残酷な単語だった。

いつも優しい言葉をかけてくれる父親の本音を、哀花はその時初めて聞いたような気がした。


この後彼は言い過ぎたと感じ「お前はできる子だ」「父さんはお前の頑張りを見ている」と哀花と顔を合わせる度言い訳のように繰り返すようになったが、それらの言葉が哀花の心に響くことは2度と無かった。