《19:30 Aランク寮》楓side
外から雨音が聞こえてくる。
どうやら降り始めたらしい――そう思って顔を上げると、いつの間にか薫が居間に入ってきていた。
酷く思い詰めた表情をしている。
「……おかえり」
いつもより小さな声になった。
薫はいつもどこか辛そうな顔をしているけど、今日は特別辛そうに見える。
“おかえり”への返事は、珍しく返ってこない。
……何かあったのかしら?
薫の苦しい気持ち全部、あたしが貰えたらいいのにと思う。
あたしは楽観的だ。
人と比べてそこが長所だと思ってる。
薫はあたしよりずっと真面目で、難しいことばかり考えて暗い気持ちになっている……んだと思う。
ならあたしがその気持ちを貰って、消化できたらいい。
でもそんなことは実際にはできないし、
「楓、…ごめんな」
薄く笑った薫は、やっぱり辛そうな顔をしている。
「戦争が終わるまで、北欧に逃げててくれ」
次に来たその言葉はあたしの予期しないものだった。
どうして今そんなことを言われるのか分からない。
「………何で?」
「北欧は今回の戦争には参加しない。北欧にいれば、比較的平穏な時を過ごせる。行くなら今のうちだ」
薫はそれだけ言って、さっき入ってきたばかりだというのにあたしに背を向けて出ていこうとする。
どこへ行くんだろう。
薫の背中がやけに冷たく見える。
まるで知らない人みたいに感じる。
「……薫」
その名を呼ぶ。
「……か、おる」
どうしてだか分からない。
「行かないで」
何故かそう言いたくなった。
「あたし、ずっと薫たちと居たい。昔みたいに薫と遊と、」
佳祐と。
そう言いかけて言葉を止めた。
雨が窓を打ち付ける音が、あたしの声を掻き消す勢いで響いてる。
「…………俺も」
薫がどうしてそんな泣きそうな声を出すのか分からない。
「俺も、戻れることならあの頃に戻りてぇよ。お前らとずっと笑っていたかった」
掠れたその声が、
あたしの聞く最後の薫の声となる。
《19:35 軍事施設中央統括所》
「スパイは大神薫です。捕まえてください」
紺野司令官の前で、はっきりそう言った。
本当は前から分かってた。
スパイが薫か楓に絞られた時点で、よく考えてみればすぐに分かった。
――――「本名かどうかは知らない。でも、彼はおれ達にそう名乗ってる」
――ルフィーノは“彼”と言ったんだ。
恐らく薫は出会った当時、スパイ疑いをかけられないための犠牲として私を使うつもりでいたんだろう。
どの時点で千端哀を名乗るのを止めたのかは分からないが、私の自惚れじゃなければ、きっと私のことちゃんと友達だって思い始めて止めたんだと思う。
だから私はすぐに薫がスパイだと報告することができなかった。
楓や遊の気持ちも考えると余計にできなかった。
でも昨日、ティエンに覚悟を確認されて――私の役目を目的を、ちゃんと思い出した。
だから、今日こそは報告しようと思った。
日本帝国軍の害悪を排除するために。
「君が言うのなら連絡をしておくよ」
紺野司令官は突然の報告にも従容として迫らず、デスクの上にあった端末でその情報を広める。
Aランク隊員がスパイであったにも関わらずこの反応……やっぱり、薫がスパイでも驚かない理由が、何かあるんだ。
「……8年前の軍事裁判では、何があったんですか」
私の質問に紺野司令官はふと手を止め、面白そうに目を細める。
「何故そんなことを?」
「“上層部の人間の弱味なら大方握ってる”と言ってましたよね。その弱味とは何ですか。あなたはその弱味を利用して、戦後総司令になれたのではないですか。そしてその弱味は――8年前の軍事裁判に関係するものなのではないでしょうか」
当時の敵国によって兄を裁かれた薫が、何故その敵国のスパイとして日本帝国と敵対しているのか。
きっとこの人なら知っている。
「そんなに気になるのか、大神薫の動機が」
「はい」
「それは何故かな?」
「は?」
「大神薫がスパイであるという事実は君にとって重要でも、大神薫がスパイになった理由は君にとって知る必要のないことだ。違うかい?」
「……」
ああ、この人は知りたがっている。
私がどういう人間か。
まるで面接だと思った。
探るような瞳がこちらに向けられている。
面接と違うところは、気に入られようとする必要がないところ。
この人に好かれる必要なんて無い。
だから。
「友達のこと知りたいって思っちゃいけませんか?」
売国奴である大神薫を友達だと思っていることを隠さず、質問で返してやった。
《19:40 Aランク寮前》遊side
今日の雨は酷く冷たい。
雨が止むまで飲食店にいるつもりだったのに、帰ってくる羽目になってしまった。
向こうから誰かが走ってくる音が聞こえる。
そしてその音は、俺に近付いたところで止まった。
濡れた髪をかきあげながら、目の前にいる人物を見据える。
「まさかお前やったとはな」
「何がだよ?」
「惚けるんやめえや」
俺は超能力部隊隊員全端末に送られたメッセージの画面を、前方の薫に見せる。
「英国に情報売っとんの、お前やろ、薫」
大神薫がスパイであるという情報は、一斉送信で広まった。
誰かが――おそらくチビが、何らかの確信を持って上に知らせたのだ。
薫は雨に濡れながら、冷たい眼で薄く笑う。
「日本帝国にはこの戦争に負けてもらう」
その言葉が薫から出てきたものだと思いたくなかった。
頭では分かっているはずなのに感情が追い付いていかない心地がする。
ああ、そうか。……ほんまに、売国奴なんやな。
「――――薫。上と交渉して敵国に嘘の情報を流せ」
俺は端末をしまい、改めて薫を見た。
「これまでずっと有力な情報流してきたお前のことや。相手はすぐに信用する」
「は、お前何言ってんだ?」
「二重スパイになれって言うとるんや。軍法会議を免れるにはそれしかない。そうでもせなお前、」
死刑やぞ。
続く言葉を言えなかった。
この日本帝国軍は裏切りを嫌う。
高ランクの能力者にのみ開示されている情報さえ、薫は敵国に流したのだ。
どうなるか分かったものではない。
しかし。
「もう1度聞くぞ。――何言ってんだ?オマエ」
薫は殺気すら孕んだ視線を俺に向けてくる。
寒気がした。
雨に濡れているからというだけではない。
俺は薫のこんな表情を、出会って1度も見たことがない。
「俺にこの軍のために働けってか?二重スパイになってまで?死んでも御免だな」
薫は端末をポケットから取り出し、地面に落とした。
それは薫が、俺たちの連絡先の入った端末をここで捨てることを意味していた。
「――――――兄貴は人体実験なんてやってない」
「……は?」
何を言ってるんだ。
佳祐は人道に反する罪で裁かれた。
証拠もきちんと揃っていた。
俺だって佳祐があんなことをするとは思わなかったが、戦争という善悪の境界線が酷く曖昧になる異常な状況下では、何が起こってもおかしくはない。
“佳祐がそんなことをするはずがない”――そんな根拠のない過信を理由にやけになって売国奴に成り下がったのなら、俺は薫をここで殴るつもりでいた。
殴って目を覚まさせるつもりでいた。
「今上層部に残っている連中は!兄貴に罪を押し付けて生き長らえた連中だ!!」
――そんな薫の怒鳴り声が響き、俺は何も言えなくなってしまった。
「今度こそあいつらには軍事裁判で死刑になってもらう。……兄貴と同じ死に方をしてもらう」
薫の目にあるのは憎しみの色のみ。
まるで憎しみだけを糧にして生きてきたかのような、そんな眼だった。
罪を押し付けた?
上層部が?
全ては上層部のしたことだったって言うのか?
じゃあ佳祐は、
…………死ぬ必要が無かったって言うのか。
「――――スパイの引き止めをありがとう、相模」
すぐ後ろから、羽瀬隊長の声がした。
俺が振り返ったのと薫が地面を蹴り上げたのは、おそらくほぼ同時だった。
隊長の後ろにはAランク能力者である薫を捕まえるための戦闘員が大勢いた。
雨音と暗さのせいで気付けなかったがいつの間にか近くまで来ていたらしい。
「大神薫を逃がすな!亡命される前に殺せ!」
隊長の言葉で、戦闘員たちが一斉に薫を追う。
薫は空へと舞い上がっていく。
「何だあの使い方……あいつ飛べたのか……?」
俺の隣で隊長が困惑した声を出す。
俺も同じ気持ちだった。
状態変化能力を応用すれば不可能ではない。
だが、俺は1度も薫がそんな使い方をしているところを見たことがなかった。
『無理です!止められません!』
「あぁ!?」
『銃も効きません!これだけ応用力のある能力とは訓練報告には一切……っ』
戦闘員と通話しながら、隊長は苛ついた様子で薫の捨てていった端末を踏みつけた。
「―――あのガキ、この8年自分の応用力の伸びを隠してやがったのか。兄貴より賢いじゃないか」
……そうか。だから薫は訓練で本気を出していなかったのだ。
万一のことがあった場合逃げ切るために。
そこまで用心して、今日までずっと、敵国に情報を流していたのだ。
一体どんな思いで、今日まで……。
薫は真っ黒な空へと消えてしまいもう見えない。
――――読心能力者のくせに。
俺はこの8年ずっと、あいつの苦しみを何1つ分かってやれていなかったのだ。



