哀花の家から出る時、一也はリビングで話している哀花の両親の会話を通りすがりに聞いた。
「ねえ、本当、大丈夫なのかしらあの子」
「まあ……哀花は昔からできない方だったもんな」
「頭も悪ければ運動もできない。おまけにDランクよ?お腹の中で優香が哀花の良いとこ全部吸い取っちゃったんじゃないの」
「はははっ言えてるな」
気分が悪くなった。薬でラリった人間の集団や死体の山を見ても何も思わなかった一也がである。
直向きに努力する幼い少女を侮辱する言葉の数々に、これまでに感じたことのない吐き気を覚えた。
「しかし、お前最近少しきつくないか?哀花に対して。褒めるところは褒めてやった方が伸びるんじゃないのか、こういうのは」
「何よ、あなた子育てに関しては何もしてくれなかったじゃない。今更口出さないで。私は教育本何冊も読んで、どうするのがベストかちゃんと分かってんだから。……それに、正直、あの子のこと優香みたいに可愛いって思えないのよ。帝王切開で産んだ子だからかしら?哺乳瓶ばっかで母乳もあまりあげてないし。自分の子って気がしないの」
(……どういう理屈だ)
この世に完璧な親など存在しない。
親といえど人間である。
人を見下し、蔑み、理不尽に評価することだってある。
そんなことは一也だって知っている。
けれど。
「まあまあ。哀花だって頑張ってるんだ」
「何よ、あなただって優香の方が好きでしょ?」
「それはそうだが……」
「どれだけ頑張ったって無理よ、哀花は。出来損ないじゃない。その点優香は言わなくてもちゃんとしてくれるから偉いわよね。ご近所さんにも自慢できるし。2人目なんて産まない方がよかったのかしら?“妹さんはどうなんですか”って期待するような目で見られる私の気持ち分かる?なんて答えりゃいいのっつー話よ」
一也はこの両親を、人としてどうかと思った。
それからの毎日、一也は哀花がいじらしくてならなくなった。
それまで感じたことのない欲求――庇護欲にも近い情を哀花に対して抱き、ますます惹かれるようになっていった。
哀花と優香を比較する人間を消したいと思う反面、これから哀花がどのように立ち向かっていくのか見たいとも思った。
もし壊れてしまったとしても、自分が真っ先にその華奢な身体を抱き締めてやろうと思った。
戦争が激化し始め、その影響で一也は軍での仕事が多くなり、半年ほど哀花に会えない日々が続いた。
――だから、任務を一旦落ち着かせ哀花の家を訪れた時、一也は度肝を抜かされたのである。
見た目に関して言えば、哀花は以前よりも優香に随分似てきているように感じられた。
いつの間にか、一也が最初に優香に出会った頃感じた、人を惹き付ける雰囲気を持つようにすらなっていた。
少女というよりは女性的な哀花の笑顔を見て、初めて一也は哀花を異性として意識し始めたのである。
一也は、女という生き物がある一定の期間にこうも変化するものだと初めて知ったような気がした。
哀花は泰久に恋をしていた。
優香と付き合っている泰久に、だ。
一也はそれを感じ取った時、哀花に同情した。
この人は恋愛においてすら姉に勝てないのかと。
その頃から、一也の中には相反する気持ちが生まれるようになった。
可哀想な哀花を慰めてやりたいし守ってやりたいし大切に思うのに、いつも自分にはヘラヘラした笑顔しか見せない哀花の苦しむ姿が見たいとも思うようになった。
強がって笑うその顔を歪ませてみたいと思った。
必死に綺麗に咲こうとする可憐な花の茎を折ってしまいたくなるような、真っ白な花を毒々しい血で塗り潰したくなるような感覚だった。
哀花の華奢な身体を抱き締めるどころか、組み敷くことを度々想像するようになった。
一也としては、自分のような卑しく汚い人間に触られて悦楽に浸る哀花を想像するとたまらなかった。
下等な人間のモノを欲しがり息を荒げる哀花――謂わば、下克上的なシチュエーションに興奮していた。
勿論そんな妄想を悟られるわけにもいかず、哀花の前ではあくまでも礼儀正しい泰久の護衛を演じる日々が続いた。
そんなある日、一也は哀花の家の庭で哀花が見知らぬ男と喋っているのを目撃した。
遠くからではあるが、ライトブラウンのルーズパーマが見えた。
(……西洋人?)
結界の張られているこの家に入ってこられるということは、優香の知り合いだろう。
そう思い近付こうとして、哀花のいつもとは違う表情が目に入り思わず歩を止めた。
そこにいつもの明るい笑顔は無かった。
先に一也の存在に気付いたのは、哀花ではなく西洋人の男の方だった。
「だーれ?」
一也を一瞥し、男は一也でなく哀花に問う。
「…幼馴染みの護衛です」
「へーえ。優香、こいつにはこの家に入ること許可してんだ」
クスクス笑いながら再び自分の方を見てきた男に対し、今度は一也が無遠慮に問う。
「あなたは誰でしょうか」
「んー。哀花ちゃんのオトモダチ、かな」
「そうなんですか?哀花様」
「……違う」
「あはは、照れちゃってー。まーいいや、今日のところはこれでお暇しよっかな。じゃーね哀花ちゃん、また今度~」
ひらひら手を振りながらふわりと宙に浮いた男は、そのまま空へと消え去った。
夏だというのに長袖を着た、妙な男だった。
「……本当にご友人なんですか?」
「違う。お姉ちゃんの恋人」
「は?優香様は泰久様と付き合っているのでは?」
「泰久とも付き合ってるよ。他にも何人かいる」
「……はあ。複数人と恋人関係になっているということですか。何故そんなことを?」
「断る理由がないからだよ。お姉ちゃんは求められたら応えちゃうから」
そこまで会話して、一也は哀花の受け答えがいつもより少し淡々として冷たいように感じた。
それがおそらくあの男と話した後だからであろうことも分かった。
だから、一也は場を明るくするためにわざと話題を変えた。
「今日は哀花様のお好きなチョコレートケーキを買ってきましたよ。また食べてください」
そう言って哀花を喜ばせようと持ってきたケーキの箱を差し出すと、哀花は「……ありがと」と力無く笑った。
――――橘優香が大中華帝国と新ソビエトの国境沿いで戦死したという知らせが届くのは、その数日後のこととなる。



