リビングに灰慈くんはいなくて、ポコが玄関に向かっておしりをふりふりとさせているのが見えるから、慌てた前髪を指で整えると、玄関の扉を開けた。
「灰慈くん、なんで」
玄関先には本当に灰慈くんがいて、ほんのちょっとだけ、涙が滲んだ。朝別れたっきりの、スーツ姿の灰慈くん。
「ふみがべそかいてる気がした」
仕事帰りらしい灰慈くんは、わたしの鼻をむぎゅうと摘み、「やっぱりね」と、正解したのに困ったように笑った。
むにむにと頬を摘まれて、いまのわたしは最強にぶさいくな顔をしているというのに、やめても言えないから、灰慈くんは両方の手で遊び始めてしまった。
灰慈くんに伝えたいのは“やめて”じゃなくて。
「……〜〜、やだ」
後悔への、懺悔。
「なにが?」
歪んだ視界でもやっぱりかっこいい王子様は、王子様らしく丁寧に腰を折って、目線を同じにしてくれる。
「やっぱり、やだ。言わないで。他の人と付き合うことも、結婚することも言わないで」
なんて無様なワガママなのだろう。わたしが挑むと駆け引きにもならない。
そんなわたしの小賢しさも、灰慈くんは見破って、解れを縫うように会いに来てくれた。
灰慈くんの身体にぎゅっとしがみついてわんわんと泣くと、彼は昔からそうしているように頭をなでなでと撫でた。



