練習、それはわたしと灰慈くんにしかわからない暗号。
「し、します」
頷けば、灰慈くんは何も言わずにわたしの手を引き、その場に立ち上がらせた。
「どっちでも、ふみが好きな方でいいよ」
大人な灰慈くんは、甘だるい声でわたしを唆す。
首元からだらっと垂れたネクタイの端っこをつまんだ。視線を縫い上げるように彼の表情を覗く。口元は柔らかく笑っているのに、彼の瞳の奥は凪いだまま。長い睫毛が目の下に影を落とし、その陰りが彼の目元に倦怠と艶を混ぜている。
「(だめだ、恥ずかしい……)」
する、と意気込んだはずなのに、いつもわたしは躊躇う。
5、4、3、2……
カウントダウンのゼロと同時に灰慈くんの腰に手を回し、ぎゅうっと抱きついた。
灰慈くんの家に行くと、二人きりでしかできないこと、をしている。
ネクタイを結ぶ、見つめ合う、手を重ねる、そして繋ぐ、ハグをする。
灰慈くんは優しい大人だ。誰が好き好んで、子どもの面倒を見るだろう。彼はわたしの人見知りが少しでも良くなるように、緊張がほぐれるように、上手にできるように、練習という名前のご褒美を与える。
けれども、いくら練習をかさねたところでわたしの心臓が落ち着くことは無いだろうし、わたしが抱きついたところで灰慈くんがわたしの身体を抱き寄せることは無い。



