研究員の手にある薬品がろくなものではないということは分かる。
私は消火器で火を消しながら、研究員にゆっくり近付いた。
「この研究はもう終わりよ。無駄な抵抗は止しなさい」
「……嘘だ…。如月の完璧な研究が、こんなところで停滞するはずがない……」
「完璧な研究…?生物を必要以上に痛め付ける研究のどこが完璧なの?」
「如月とオレがいれば、研究を進められる!そうだ、今度こそ誰の邪魔も入らない場所で、ゆっくり研究を進めればいい!この研究は大きくなりすぎたんだ!」
「……無理よ。研究を支援する人間はもういなくなる」
「嘘だ!嘘だ嘘だ嘘だ!―――…そうだ、君を一時的に殺して連れていけばいい」
「…え?」
「君という実験動物さえいれば、誰の支援も必要ない!そうだ、そうしよう!」
研究員は薬品の入ったビンの蓋を開け、にやりと笑った。
「君から来てくれて嬉しいよ―――“最重要実験体”!」
得体の知れないビンの中身がこちらに向かって飛んでくる。
私を殺すつもりで撒いてくるのだから、相当な薬品であることは間違いない。
……馬鹿な男だ。私が死のうと、すぐ外には3人も私の仲間がいる。
私を連れ去ることは不可能だ。
そう思って覚悟を決めて避けることなく目を閉じようとした時――目の前に、大きな体が広がった。
その一部始終が、スローモーションのように見えた。
大きな体が私に覆い被さるようにして床に倒れる。
……私に、薬品は一滴も掛からなかった。
「―――ブラッドさん……!!」
何で。どうして。
聞きたいのに、言葉にすることができなかった。
「駄目ですよ…自分の体を粗末にしたら」
貴方が言えたことじゃないでしょう。
「君はこれから…普通の人間と同じ体になるんですから」
貴方だって普通の人間のくせに。
「俺のために死ぬのは……もうやめてください」
貴方だって、私のために死のうとしてるくせに。
「愛しい女性が殺されるところを見るのは一度で十分です……」
ブラッドさんは今まで見たこともないくらい苦しそうで、薬品を受け止めたその背中でどんなことが起こっているのかは見えないが、とにかく酷い音が聞こえる。
「今度は俺が……助けられて良かった」
私の頬に触れながら消えそうな声で言ったブラッドさんは――意識を失ったらしく、どさりと私の上に倒れた。
―――直後、消火によって火のない道ができたのか、ジャックがこちらへ走ってくる。
私の上にいるブラッドさんを抱き上げ、呼びかけながら外へ走っていく。
「逝くな!弟のくせに、俺より先に死んでどうする!」
兄らしい言葉だと思った。
何年も違う道を歩んだ兄が、兄らしく弟を助けようとしている。
兄弟というのは不思議なものだと思った。
自分でも冷静すぎると思うくらい冷静だった。
穏やかな殺意が胸の内を渦巻いている。
ジャックがブラッドさんを持ち上げた拍子にブラッドさんの所持していた物が落ちたらしく、床には拳銃があった。
震える研究員の手にあるのは、空のビン。
「……ごめんなさい、ブラッドさん」
貴方は私に誰も殺させないと言ってくれたけど。
私の手を汚させはしないと言ってくれたけど。
世間一般の幸福を与えると言ってくれたけど。
―――私は人を殺します。
「や…やめてくれ」
拳銃を拾い上げ、真っ直ぐに、研究員へと銃口を向けた。
「あんな薬品、あれだけの量を普通の人間にかけるつもりはなかったんだ!相手が不老不死だから余分に撒いただけで、まさか庇うとは――…、」
研究員の話が終わるのを待っている余裕は無かった。
パンッ…と乾いた音が一度響いた。
私の手は震えることなくしっかり拳銃を握っていた。
研究員が倒れていくのを見て、ようやく息を吸った。
急所を目掛けて打ったのは初めてなのに、一発で仕留められるとは思わなかった。
倒れた研究員に火が移り、燃えていく。
私は暫く動かずにじっとその様を見ていた。
自分のしたことの結果を眺めていた。
人の命を奪うのはこうも容易いことなのだと、だから大事にしなければいけないのだと思った。
その夜私は――――初めて人を危めたのだった。
世界は何事も無かったかのように進んでいく。
あの夜からもう数日が経った。
数日経っているのに、昨日のことのように思える。
ブラッドさんはフォックスの知り合いの軍医の応急処置を受けた後、近場の病院に搬送された。
ブラッドさんがリバディーの人間であることを知ると、病院の人達はこんなことになった事由に関して深く聞いてくることもなかった。
病院側は薬品の正体に見当が付いたらしく、何とか一命を取り留めたブラッドさんだったが、いつ死んでもおかしくはないという状態が続いている。
もう何日も目を覚ましておらず、このまま目覚めない可能性が高いと言われた。
この数日間、ジャックから色々な知らせを聞いた。
私への指名手配が取り下げられたこと。
研究所の爆破によって各地で発生した火災は、ただの火災として片付けられたこと。
研究のデータは全て消えたこと。
研究の犠牲になっていた人々はそれぞれの生きやすい組織に預けたこと。
全てが終わったのだ。
私の体がまだ不老不死であることを除けば、だけれど。
およそ20歳と半年。それが私の不完全でいられる時間。
だから早く動き出さなければならないけど、どうしてもそんな気になれない。
フォックスもどうしていいか分からないらしくどこから持ってきたんだか分からないお見合い写真を私に渡してきたが、受け取るだけでまだ中身は見ていない。
早くしなければならないのに――私は何を躊躇っているんだろう。
ずっとブラッドさんのベッドの隣にいた私に「何か食べないと体調を崩すよ」と言って病院の食堂に連れ出したジャックは、食欲の湧かない私に消化に良い物を頼ませた。
スローペースでありながらも食事を進める私に気を使ってか、ジャックもゆっくりめに食べてくれた。
『士巳豆元首相の殺害事件に関して、詳細は未だ分かっておらず、犯人に関する情報も一切――』
食堂のテレビには、さっきから何度もこのニュースが流れている。
日本で首相が殺されるというのは歴史的にも少なかったことであり、この時代に起こることとは思われていなかったらしい。
「アリス」
ニュースをぼーっと眺めていると、正面のジャックから名前を呼ばれた。
「君はブラッドのことでかなりショックを受けている。だから、こんな時に言うことではないのかもしれないが…大事なことだから聞いてほしい」
今までジャックから聞かされたのは良い知らせばかりだったのに、ジャックの真剣な表情を見て今度は何の知らせだろうと酷く怖くなった。
その恐怖は嫌な予感に近かった。
私は消火器で火を消しながら、研究員にゆっくり近付いた。
「この研究はもう終わりよ。無駄な抵抗は止しなさい」
「……嘘だ…。如月の完璧な研究が、こんなところで停滞するはずがない……」
「完璧な研究…?生物を必要以上に痛め付ける研究のどこが完璧なの?」
「如月とオレがいれば、研究を進められる!そうだ、今度こそ誰の邪魔も入らない場所で、ゆっくり研究を進めればいい!この研究は大きくなりすぎたんだ!」
「……無理よ。研究を支援する人間はもういなくなる」
「嘘だ!嘘だ嘘だ嘘だ!―――…そうだ、君を一時的に殺して連れていけばいい」
「…え?」
「君という実験動物さえいれば、誰の支援も必要ない!そうだ、そうしよう!」
研究員は薬品の入ったビンの蓋を開け、にやりと笑った。
「君から来てくれて嬉しいよ―――“最重要実験体”!」
得体の知れないビンの中身がこちらに向かって飛んでくる。
私を殺すつもりで撒いてくるのだから、相当な薬品であることは間違いない。
……馬鹿な男だ。私が死のうと、すぐ外には3人も私の仲間がいる。
私を連れ去ることは不可能だ。
そう思って覚悟を決めて避けることなく目を閉じようとした時――目の前に、大きな体が広がった。
その一部始終が、スローモーションのように見えた。
大きな体が私に覆い被さるようにして床に倒れる。
……私に、薬品は一滴も掛からなかった。
「―――ブラッドさん……!!」
何で。どうして。
聞きたいのに、言葉にすることができなかった。
「駄目ですよ…自分の体を粗末にしたら」
貴方が言えたことじゃないでしょう。
「君はこれから…普通の人間と同じ体になるんですから」
貴方だって普通の人間のくせに。
「俺のために死ぬのは……もうやめてください」
貴方だって、私のために死のうとしてるくせに。
「愛しい女性が殺されるところを見るのは一度で十分です……」
ブラッドさんは今まで見たこともないくらい苦しそうで、薬品を受け止めたその背中でどんなことが起こっているのかは見えないが、とにかく酷い音が聞こえる。
「今度は俺が……助けられて良かった」
私の頬に触れながら消えそうな声で言ったブラッドさんは――意識を失ったらしく、どさりと私の上に倒れた。
―――直後、消火によって火のない道ができたのか、ジャックがこちらへ走ってくる。
私の上にいるブラッドさんを抱き上げ、呼びかけながら外へ走っていく。
「逝くな!弟のくせに、俺より先に死んでどうする!」
兄らしい言葉だと思った。
何年も違う道を歩んだ兄が、兄らしく弟を助けようとしている。
兄弟というのは不思議なものだと思った。
自分でも冷静すぎると思うくらい冷静だった。
穏やかな殺意が胸の内を渦巻いている。
ジャックがブラッドさんを持ち上げた拍子にブラッドさんの所持していた物が落ちたらしく、床には拳銃があった。
震える研究員の手にあるのは、空のビン。
「……ごめんなさい、ブラッドさん」
貴方は私に誰も殺させないと言ってくれたけど。
私の手を汚させはしないと言ってくれたけど。
世間一般の幸福を与えると言ってくれたけど。
―――私は人を殺します。
「や…やめてくれ」
拳銃を拾い上げ、真っ直ぐに、研究員へと銃口を向けた。
「あんな薬品、あれだけの量を普通の人間にかけるつもりはなかったんだ!相手が不老不死だから余分に撒いただけで、まさか庇うとは――…、」
研究員の話が終わるのを待っている余裕は無かった。
パンッ…と乾いた音が一度響いた。
私の手は震えることなくしっかり拳銃を握っていた。
研究員が倒れていくのを見て、ようやく息を吸った。
急所を目掛けて打ったのは初めてなのに、一発で仕留められるとは思わなかった。
倒れた研究員に火が移り、燃えていく。
私は暫く動かずにじっとその様を見ていた。
自分のしたことの結果を眺めていた。
人の命を奪うのはこうも容易いことなのだと、だから大事にしなければいけないのだと思った。
その夜私は――――初めて人を危めたのだった。
世界は何事も無かったかのように進んでいく。
あの夜からもう数日が経った。
数日経っているのに、昨日のことのように思える。
ブラッドさんはフォックスの知り合いの軍医の応急処置を受けた後、近場の病院に搬送された。
ブラッドさんがリバディーの人間であることを知ると、病院の人達はこんなことになった事由に関して深く聞いてくることもなかった。
病院側は薬品の正体に見当が付いたらしく、何とか一命を取り留めたブラッドさんだったが、いつ死んでもおかしくはないという状態が続いている。
もう何日も目を覚ましておらず、このまま目覚めない可能性が高いと言われた。
この数日間、ジャックから色々な知らせを聞いた。
私への指名手配が取り下げられたこと。
研究所の爆破によって各地で発生した火災は、ただの火災として片付けられたこと。
研究のデータは全て消えたこと。
研究の犠牲になっていた人々はそれぞれの生きやすい組織に預けたこと。
全てが終わったのだ。
私の体がまだ不老不死であることを除けば、だけれど。
およそ20歳と半年。それが私の不完全でいられる時間。
だから早く動き出さなければならないけど、どうしてもそんな気になれない。
フォックスもどうしていいか分からないらしくどこから持ってきたんだか分からないお見合い写真を私に渡してきたが、受け取るだけでまだ中身は見ていない。
早くしなければならないのに――私は何を躊躇っているんだろう。
ずっとブラッドさんのベッドの隣にいた私に「何か食べないと体調を崩すよ」と言って病院の食堂に連れ出したジャックは、食欲の湧かない私に消化に良い物を頼ませた。
スローペースでありながらも食事を進める私に気を使ってか、ジャックもゆっくりめに食べてくれた。
『士巳豆元首相の殺害事件に関して、詳細は未だ分かっておらず、犯人に関する情報も一切――』
食堂のテレビには、さっきから何度もこのニュースが流れている。
日本で首相が殺されるというのは歴史的にも少なかったことであり、この時代に起こることとは思われていなかったらしい。
「アリス」
ニュースをぼーっと眺めていると、正面のジャックから名前を呼ばれた。
「君はブラッドのことでかなりショックを受けている。だから、こんな時に言うことではないのかもしれないが…大事なことだから聞いてほしい」
今までジャックから聞かされたのは良い知らせばかりだったのに、ジャックの真剣な表情を見て今度は何の知らせだろうと酷く怖くなった。
その恐怖は嫌な予感に近かった。



