マイナスの矛盾定義

エリックの指がそっと私の唇をなぞった。



「私とお前の間にある壁は、私がお前に深く触れれば消えるのか?」



その質問の意味するところを雰囲気で理解することができた。


だから急に鼓動が速くなって、すぐに反応することができなかった。




「ニーナ、」



エリックの瞳が妙に熱っぽく私を見つめてくる。



「抱かせてくれ」




冬の冷たい風が私たちを通りすぎて行き、触れられた箇所だけが熱かった。
ハイクラスサービスを提供してくれると噂のこの都市随一のホテルは、組織の重要人を優先するらしく、すぐに部屋を借りることができた。





「無理をしていないか?」



私をベッドに押し倒したところで、エリックは私を見下ろして問うた。


何故そんなことを聞くのか疑問に思って見上げると、エリックは続けて言う。



「お前はこういった行為に良い思い出がないだろう」



良い思い出がないからといって嫌な思い出があるわけじゃない。


確かに客によっては痛い目や苦しい目にも合わされた。


それでも仕事として割り切っていたし、嫌な思い出というならもっと他の思い出がある。



「……平気です」



そういう意味では平気なのだが、さっきから妙に落ち着かない。


男の人に体を見られることは慣れているはずなのに、心臓が五月蝿い。



「苦しくなったら言ってくれ」



私を気遣うようにそう言ったエリックはゆっくり動き始めた。





他の男と幾度となくしてきた行為だったが、今までで1番身体が反応したように思う。


女の身体というものはやはり感情に支配されているらしい。


相手に好意的な感情があるからこそ感じるのかもしれない。


誰に触れられようと、刺激に対して身体が反応することはあった。


でもそれは身体がそういう風にできているからであって、エリックとの行為とは全然感じる度合いが違う。



大事にされてる感じがした。


初めて感じた欲情だった。


何もかもが違った。


知らない世界に迷い込んだ気になった。


だけど、エリックがちゃんと地図をくれる気がしたから怖くなかった。
事が終わると、エリックは腕枕をして私の頭を撫でた。


そんなことをされたのは初めてで――変な気持ちになった。



「……どうした?」


「え…?」


「痛かったのか?」



心配そうに聞いてくるから何故だろうと思ったが、涙が頬を伝う感触がして、そういうことかと納得した。



「いえ…これは違います」



おかしくなってきてクスクス笑う私を、エリックは不思議そうに見ている。



「幸せで」


「幸せ?」


「はい。心がぽかぽかします」



我ながら他に表現がないものかと思うが、この表現が1番今の気持ちを表すのにぴったりだとも思う。



「そうか」



幸せだと言って涙を流す私を見て、エリックはとても幸せそうに微笑んだ。



「壁は無くなったか?」


「多分…」


「もう遠くに感じない?」


「そう…ですね。おかげさまで」



さっきまで感じていたモヤモヤはいくらか無くなったか気がする。



「…あの、あと」


「何だ?」


「他の女性に、したことのないことも、してほしいです」


「……」


「したことがあることでも別にいいんですが…たまにはエリックの初めてが欲しいなって思うんです」


「…そういうのを、」



エリックは私に視線を向けたままゆっくり起き上がる。



「殺し文句と言うんだ」



何故起きるのか分からずエリックをただ眺めていると、エリックの手が私の腰に触れた。



「2度連続ではしたことがない」


「……え、な、何を」



嫌な――予感がする。



「私の初めてが欲しいんだろう?」



――見下ろしてくるエリックは凄く悪い顔をしていた。



「何を逃げている?自分の発言には責任を持て」


「い、いや、エリック、あの、目が怖……」


「長い夜になりそうだ」



明日も仕事では……?という私の疑問は、片息となって消えていった。
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動き出す歯車を止めることはできない



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『 私は1人でも大丈夫よ 』





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episode07
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〈 アリスサイド 〉
リバディーの助けで私は無事日本に入国することができた。


ニット帽を深く被り、こそこそしながら日本を歩く。



暫く一緒に歩いていたが、アランは駅の近くで立ち止まった。



「俺はここから別行動だ。早めに動き出さないと間に合わないからな。何かあったらまた連絡してくれ」


「分かりました」


「それと、ラスティもこっちに来てるらしい。後で合流してやってくれ」


「彼は研究所にいるはずでは?」


「休みを取ったそうだ。直接報告したいことがあるんだとよ」



アランはブラッドさんと話した後私に視線を移し、


「無事でいろよ」


と気遣う言葉をくれた。



「…分かってるわよ。色々とありがとう」


「あぁ」



最後にポンポンと帽子ごしに私の頭を軽く叩き、駅へと走っていく。



アランがいなくなってから、ブラッドさんは時計を見て言う。



「まずは宿探しですね」


「え?ホテルならもう予約したんじゃなかった?」


「状況が変わりました。より安全な場所へ行った方がいいでしょう」



その前にちょっと携帯ショップに寄りたいんだけど…と言おうとした時、私の心を読んだかのようにブラッドさんと話していたチャロさんが私に話しかけてきた。



「あ、そうだ。アリスちゃん、携帯がどうとか言ってたよね?内部連絡用のやつでよければ一個余ってるから貸すよ。リバディーの人にしか連絡できないけど、ないよりはマシでしょ?」


「え……いいの?それ」


「緊急事態だし、アタシ達もアリスちゃんと連絡取れないと困るから。それに、アリスちゃんだと普通の携帯ショップで契約するのは無理だと思う」



確かに、言われてみればそうだ。


私は身分を証明できないし、偽装するにも時間が掛かる。



有り難く受け取っておこうと思いチャロさんから携帯をもらった。
ジャックやフォックスには公衆電話で連絡しようかしらと思っていると、



「やぁ、遅かったね」



無造作な黒髪の男が、壁に体を預ける形で私たちに話しかけてきた。



クリミナルズが来るのはこの港じゃないと分かっているはずなのに、何故ここにいるのか……。



「キャシーから連絡があってさ。アリスは多分この港で降りるだろうから、安全かどうかだけでも確認しといてほしいって」



驚いて言葉が出ない私にそう説明してから、ジャックは私とブラッドさん、そしてチャロさんへと順番に視線を移していく。



「ここに来る間に随分状況が変わったみたいだね。シャロン君と何かあった?」



疑問に思うのも当然だ。


ついこの間まで犯罪組織にいた私が敵組織の人間と一緒にいるのだから。