マイナスの矛盾定義

何枚もの書類には、国民の不信感を煽るような文章が綴られている。



「…一体どこで……」


「お前達を良く思っていない人間は少なくないということだ」



ふっと笑ってみせるエリックは、いつになく格好良かった。


やっぱりちゃんとする時はちゃんとしてるんだ……。



「口の堅さには自信がある。情報管理組織のトップなのでね。だがそれは――あなた方がマーメイドプランから手を引くならの話だ」



――エリックの冷たい声に、官僚達が息を飲むのが分かった。
部屋の外に出ると、緊張が緩和された。



「無事に交渉が成立して良かったですね」



ほっとしながらエリックに言う。



官僚達は今後一切マーメイドプランに関わらないことを約束してくれた。


エリックを難しい顔で睨んでいる人もいたが、睨むだけでどうすることもできない様子だった。



「そうだな。後はあいつらが何とかしてくれるだろう」



安心したのはエリックも同じなようで、柔らかい笑顔を向けてくる。



きっとアリスさん達は今頃頑張ってる。


マーメイドプランを終わらせるため、今私たちにできることはこれくらいだけど……日本でも、どうか成功させてほしい。




そんなことを思いながらエリックの隣を歩いていると、


「エリック?」


廊下を歩いていた綺麗な女性がエリックの名前を呼んだ。



「……あぁ、お前か。久しいな」



スーツを身に纏うその女性は、正面からエリックに近付いた。


エリックのパーソナルスペースに自然と入り込んだのだ。



「リバディーの方、大変だったみたいじゃない?大丈夫なの?」


「お前に心配されるほどのことじゃない」



エリックの方も特に気にしている様子はない。



「あらそう。自信家なところは変わらないわね。…じゃあ」



女性はクスクス笑いながら、エリックの横を通り過ぎていく。
時世に疎い私でも顔に見覚えがあるから、この国の有名な役人なのだと思う。


やっぱりニュースとか新聞は見た方がいいな…。



いつもならエリックが誰と知り合いだろうと気にならないのに、距離感が妙に近かったせいで気になってしまう。


でも仕事で関わったことがある程度の関係なら私が気にするのはおかしい。





そう思って何も聞かずにいると、


「随分前に交際していた女性だ」



官邸を出る時、エリックの方から言ってくれた。



「彼女が仕事に集中したいと言うから別れた」



表には出さなかったが、少々動揺してしまった。


エリックには恋愛経験がないと勝手に思っていたから。


そういえばこの人だってもう32歳だし、付き合った女性の1人や2人いてもおかしくはない。



「そう…なんですか」


「う…疑ってるのか?」


「はい?」


「念のためもう1度言っておくが彼女とはもうそういう関係ではない」


「はあ…」


「私は浮気をするような男ではない」


「それは分かりますけど…」


「……疑ってないか?」



エリックがあまりにも深刻な表情で私を見下ろしてくるから、笑いを堪えるので必死な状態に陥ってしまった。



「だ、大丈夫です…ふっ…ふふっ……う、疑ってません」


「本当にか?先程からチラチラ私を見ていたようだが、“浮気する男は嫌だな”とか“別れようかな”とか思ってはいなかったか?」


「ふっ……お、思ってませんて」


「何を笑っている?」


「いえ…エリックが見当違いなことを本気で心配しているものですから」


「…見当違い…そ、そうか」



エリックはちょっと恥ずかしそうに私から視線を外した。
帰りはエリックの車だった。



この都市は交通渋滞の多い場として有名だが、渋滞も悪くないと思えるような夜景が広がっていた。


橋は綺麗にライトアップされ、向こうに見える街の光も湖にうつっている。



「綺麗……」


「ここをお前と2人でドライブしてみたかったんだ」


「…ありがとうございます」



だからわざわざ車で来たのか、と納得した。



そこでふと思う。


前々からエリックは女を喜ばせることが上手い。


プレゼントも女性が喜ぶであろう物を的確に買ってくるし、こういう夜景も多くの女性は喜ぶだろう。



……今まで考えてこなかったけど……意外と相当恋愛経験豊富なのでは…?



恋人の過去の恋愛にまで口を出したくはないが、単純に気になり、


「誰かをここへ連れて来たことあるんですか?」


ぽろっと口から疑問が出てしまった。



「別に連れて来ようと思ったわけではなかったが、たまたまライトアップされている時間帯にここを走ったことはある」



エリックは基本的に嘘を吐かない。



「…今日会ったあの女性とですか?」


「いや。別の女性だ」



やっぱり…。この人、初に見えて結構経験あるんだ。



「その時その女性がやけに喜んでいたものだから、女はこういうものを見るのが好きなのかと……その時のことを思い出してお前に見せてやりたいと思った」


「そうなんですか…」


「嫌いか?夜景は」


「いえ…」



嫌いではないし寧ろ好きだけど、何だか複雑な気持ちだ。



「……あの女性にも、私にくれたような物をプレゼントしたんですか」



今までエリックに貰った物は全部大切に保管している。


でもあのプレゼント達も、以前誰かにあげたら喜んだから、私にくれた物なんだろうか。



面倒なことを言ってしまっていることに言った後で気付き、話題を変えようと思ったが、



「妙に気にするんだな」



エリックは私が気にしていることに気付いてしまったようだ。
その後「何か飲み物を買おう」と言ってパーキングエリアに入っていく。


私の喉が渇いていることまで気付いたらしい。



車を降りて自動販売機まで歩く間、エリックは私に問うた。



「私と彼女を見てどう感じた?」



質問の意図が分からない。


だからどう答えていいか分からない。


でも分からないじゃ済まされないような空気が流れていることだけは分かる。



「…強いて言うなら…少し、エリックを遠く感じました」



誰しも過去があるわけで、その過去があったうえで今ここにいるエリックが好き。


だから私が気にしてしまっているのは過去のことじゃないのかもしれない。



「なんというか……相対的な距離感の問題でしょうか。エリックとあの女性の間には私とエリックの間にある壁がない気がしたんです」


「壁?」


「男女の壁…いや、深く触れ合ったことのある者同士でなければ無くならない壁、というか」



自分でも何を言っているのかよく分からなくなってきた。



「…私が遠いと嫌なのか」


「嫌…なのかどうかはよく分かりません」



エリックが遠いことが嫌なんじゃなくて、あの女性とエリックが近いことにモヤモヤしたのだ。



自動販売機で温かいココアを買い、車に戻ろうとすると引き止められる。



「私はお前に私を近くで感じてほしい」