マイナスの矛盾定義

――アタシは目の前のこの男を殺さなければならない。




「……っ!」



陽に蹴りを入れようとしたが、少し驚いた顔をされただけでやはりかわされた。


すかさず殴りかかろうとすると、陽もこちらを押さえ付けようとしてくる。


アタシはそれを避け、距離を置いた。




本気の陽と戦って勝てる気はしない。


リバディーの戦闘訓練で相手をしてもらった時勝てたことはあるが、本気だとは感じなかった。


おそらくずっと…リバディーにいる間ずっと、陽は自分の能力を最低限隠して生活していたのだと思う。



でも、いくら陽が強くても、アタシだって今回ばかりは負けるわけにはいかない。


今度こそ油断なんてしない。




最初は全て避けていたものの、陽は徐々にアタシの攻撃を受け始めた。


連続で攻撃されて疲れが出てきたのだろう。



……それにしても、なぜこちらを攻撃してこないんだろう?



もしかして――どうせアタシは丸腰だと思って手を抜いてるんだろうか。


…笑わせるな。




アタシは隙をついて隠し持っていた殺人用のナイフで―――陽を刺した。



殺傷力を追求してつくられたナイフだ。


陽は崩れ落ちるように床に倒れ込む。



咄嗟に避けられたため急所は外してしまったものの、この傷なら放っておいたって死ぬのは時間の問題だろう。




「さようなら。―――ずっと好きだったよ」





陽が敵だと知ったあの日、陽がアタシを油断させるために使った言葉を残し、アタシはその場を去った。
「シャロン、治療!」



人気のない廊下に倒れ込んでいた陽を私とキャシーでシャロンの部屋まで運んだ。


見たところ傷は深い。


即死を免れただけでも幸いだろう。



腹部から多量の血が出ている陽を見てシャロンは眉を寄せた。


「そこのベッドに横にして」



シャロンの指示通り、私たちは陽をベッドにおろす。



陽はとても苦しそうだが、シャロンの元へ届けられた時点で、私は既にいくらか安心していた。


シャロンなら、これほどの傷を負った人間でも生きてさえいれば治せるからだ。


もちろん陽自身の気力も必要だけど…戦闘で負った傷を診ることにおいて、シャロンほど慣れている者はいない。



処置をしながら、シャロンは私たちに聞いた。



「どういう状況なのぉ?」


「アリスとはぐれたのですけれど、アリスを探している最中に倒れている陽を見つけましたの。私1人で運べば不安定になると思いましたので、近くに仲間がいないか確認しているとアリスを見つけましたのよ」



陽を運ばずにシャロンを呼ぼうかとも思ったけれど、攻撃的なリバディーの人間が近くにいるかもしれない状況で、シャロンを部屋の外に出すわけにはいかない。
「リバディーの連中が来てる……裏切り者の俺を殺そうとしたんすよ」



辛うじて喋る余力はあるらしく、陽はシャロンにそう伝えた。



「何人?」


「すんません、分からないっす…。でも、こっちが何人いるか知らないようだったんで…偶然この船に乗ってるだけでしょう」



それを聞き、シャロンは「今度からは貸し切るか」と面倒くさそうに言った。




アランは私と一緒にいた。


その間に陽がやられた。


リバディーの人間が他にも来てるってことだ。



アランの言っていた、プライベートで来てるっていうのは嘘?


…分からない。


でも、アランに聞けば何か分かるかもしれない。


もしかしたら、こちらの組織の人間には手を出させないようにしてくれるかも………いや、それは期待しすぎね。



いくらアランでも、一応敵組織の人間だ。


そこまで協力してくれるとは思えない。



「それにしても、派手にやられたねぇ」



シャロンが陽の傷口を見て言う。



「誰にやられたのぉ?陽でもこうなっちゃうってことは相当強いんだろうねぇ?俺もそいつに会ったら負けちゃうかもぉー」


「……いや、ボスは負けないっすよ。俺がやられたのは、手加減してしまったからです。俺は、……相手を殺す勢いでは戦わなかった」


「手加減、ねぇ」




シャロンの目がすうっと冷たくなり、次の瞬間、シャロンは立ち上がって――陽の腕を勢いよく踏み付けた。


「……ッ!」


陽は顔を歪ませ、声にならない悲鳴を上げた。


こうして見るとシャロンって足長いわね…。
「お前、自分がどこの組織の人間だと思ってんのぉ?」


「……ッ、…っボスの、組織、っす……」


「だよねぇ。」



にこり、とかわいらしく笑うシャロンだが、その足は容赦なく陽の腕を蹂躙する。




「シャロン様、やりすぎですわ!」


「どうせ刺されてんだよぉ?痛いところが1つ2つ増えたところで変わらないでしょ」



キャシーの言葉に対して淡々と言うシャロンは、こう形容するのが正しいのかは分からないが、犯罪組織のリーダーらしい顔をしていた。



「リバディーには長年いたから懐かしくなっちゃった?困るなぁ、そんなんじゃ」


「すんません………次は、殺します」



苦しそうな顔をしながら陽がそう言うと、シャロンはようやく足を退けた。




「ったく、“手加減した”で陽が死んだら困るんだよぉ?俺」


「はい……すんません」


「陽には、いつか頼みたいことがあるからねぇ」


「はぁ…」


「勝手に死ぬなってのぉ」



いつものぶりっ子モードでぷんぷん怒り始めたシャロン。


ようやく場が冗談っぽい雰囲気になったが、陽はまだ痛いらしく腕を押さえている。






「…チャロさんね」



私の言葉に、陽がわずかに目を開いた。
「チャロさんのこと、好きだったの?」



この場でこんなことを聞くのはどうかと思う。


でも、陽なら弱っている今でなければ本音を吐露しないと思った。



「…そんな風に見えんの、俺」


「好きだったの?」



繰り返し問うと、陽は困ったように目を閉じた。




「………あぁ。本人には、信じてもらえねーけど」




やっぱり、そうだったのか。




……どうして私はこんなことを聞いたんだろう。



どうして陽の答えを聞いてほっとしたのだろう。



…あぁ、もしかして。


自分が許容されたように感じたのではないだろうか。



陽でも敵に好意を抱く。


それが普通のことなのだと、私だけではないのだと、人間だから仕方がないのだと、許された気がしたのだ。




「つっても、怒らないでくださいよボス。次はマジで殺しますんで!」



へらっと軽く笑ってシャロンにウインクする陽。


明るく見せようとしているが、傷が酷いのは見れば分かる。




……これからもっと怪我人が増えるかもしれない。




「…船内に、アランがいたわ」


「アランさんが?」



陽が次の言葉に警戒するように私を見た。




「私、もう一度彼に会ってくる」
陽は眉を寄せ、私に忠告する。



「やめとけ。確実に面が割れてる俺やアリスちんは……船内を動き回らない方がいい」