マイナスの矛盾定義

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ノックをして部屋に入ると、お兄ちゃんは窓の外の景色をぼーっと眺めていた。


その姿はなんだか弱々しい。今にも身投げでもしそうな雰囲気だ。



「アリスさんがいなくなったから落ち込んでいるんですか?」



先にアイスを部屋の冷蔵庫に入れてから向かいの椅子に座り、話し掛けた。



「……………落ち込んではいませんが」


「でも、襲撃事件からずっと暗いじゃないですか」



お兄ちゃんが無口なのはいつものことだったけど、あれからはもっと酷い。笑顔も見せない。



私、アリスさんのことばかり気にしてお兄ちゃんの気持ち考えてなかったのかな…。もしかしたら、お兄ちゃんだってお兄ちゃんなりにアリスさんを守る方法を考えていたのかもしれないのに。



「…ごめんなさい。私、アリスさんが逃亡しようとしているのを知っていて何も言いませんでした。罰を受ける覚悟はできています」


「ニーナが謝る必要はありません。アリスは関係ありません。俺はアリスを諦めたので」


「ええっ!?」


驚いて思わず上擦った声が出てしまった。


諦めた?ずっとずっとずっと春さん…いや、アリスさんを探し求めていたあのお兄ちゃんが?
「もっと仕事が欲しい。このタイミングで休暇になってしまったのはなんの試練なんでしょうね」


「…仕事をして忘れたいんですか?アリスさんのこと」


「仕事で心の隙間を埋めていないと死にたくなるんです」



このまま死んだら怨霊になってこの世をさまよいそう…。



「……なぜそんなにアリスさんが好きだったんですか?」


「俺のような人間を助けてくれたからです」


「お兄ちゃんを助けてくれた人なら他にもいるのに、なぜアリスさんだけを?」


「俺の“命”を救ってくれたからです。見ず知らずの俺を庇って死んでくれた。俺のような人間でも守るべき命を持っているのだと教えてくれた。俺は彼女に助けられた時初めて自分が人間であることに気付けたんです」



お兄ちゃんも私と同様、幼少期は奴隷として過ごした。


酷い扱いを受けた。そうされることが当たり前だと思っていた。自分に価値などないと理解していた。


そんなお兄ちゃんの命を体を張って守ったという事が、お兄ちゃんにとってどれほどの意味を成すことであったか、アリスさんはきっと気付いていない。





「人間なのだから、恋をするのも自由でしょう?」




その言葉にはっとさせられた。


……そうだ。私達は人間だ。恋したっていい。どこに駄目な理由があるんだ。




なぜ自分は、自分がエリックから好意を向けられることを恥じていたのだろう。
「彼とはどういう関係なんですか?」



私の心を読み当てたかのように聞いてきたお兄ちゃんには驚いた。



「エ、エリックですか?どういう関係も何も、そういう関係ではありませんが…。あ、そ、そういえばあの冷蔵庫に入れたアイス、エリックが選んでくれたんですよ。よければぜひ…」


「俺は“彼”としか言っていませんが」


「えぇっ」



これまたびっくりした私を見て、お兄ちゃんはふっと微笑んだ。…笑った!



「俺の分も幸せになってください」



“彼”という単語だけで思い浮かべてしまう彼。


信頼の置けるひと。私の救世主。


好きな人に好きと言う権利が私にはある。ならどうしたい?



お兄ちゃんの笑い方はどこか寂しげで、しかし見目麗しい。


失恋をした人というのはこんなに綺麗なものだったのか。



「…お兄ちゃんは、新しい恋とか、」




「……俺はこの先一生、彼女以外を好きになることはないと思います」




お兄ちゃんは、初恋を最後の恋にするらしかった。
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エリックはまだ仕事中だが、置き手紙を残して1人で外に出た。


お兄ちゃんと話した後部屋に戻り、やることもなくエリックに借りた本を読んでいたのだが、それももう飽きてしまって。


何もないように思っていたが、海の近くにはレストランや散髪屋さんがあった。




“その”少女は、その散髪屋さんから出てきた。



「わっ」


歩いていた私にぶつかったのは、車いすのフットサポート。


乗っていた10歳くらいの少女は口をパクパクさせ、小さなホワイトボードに何かを書き始めた。


 “ごめんなさい”


バッと見せられたホワイトボードには謝罪の文が書かれていた。この子、喋れないのか。



「いえ…周りを見ずに歩いていたので、こちらの不注意です」



答える最中、少女はずっと私の口元を見ていて、少ししてから首を振って頭を下げた。


少女のアッシュブラウンの綺麗な髪が風で揺れる。先程この散髪屋で切ってもらったのだろう。


見たところ1人だ。この辺に住んでる子なんだろうか。
「一緒に来てる人はいますか?」



聞けば、少女はまたじっと私の口元を見た後、ホワイトボードに何かを書いた。


…この子、耳も聞こえないのかもしれない。読唇術使ってる…?



 “もうすぐ迎えが来る”



迎えが来るまで話し相手くらいにはなれるだろうと思い、しゃがんで話し掛けた。



「お名前は?」




 “ Emma ”



エマ、か。…どこかで見たことのある名前だ。



「いい名前ですね。私は、」


言い掛けた時、エマちゃんはホワイトボードに続けて何かを書いた。



 “あなた そろそろ帰った方がいい”


 “見つかったら処分されちゃうよ”



処分……?



その言葉は何を意味しているのだろうと考えていた時、




「ニーナ!」



後ろから大きな声がして、びっくりして振り返った。


エリックが物凄いスピードでこちらに来ている。は、走るの速い…。



「どこかへ行く時はちゃんと行き先も書け!知らない土地なんだから。心配しただろ」



エリックはすぐに私のそばに辿り着き、焦った様子で言う。



「…子供じゃないんですから」



本気で心配して走ってきたようで、少し汗をかいていたのでくすっと笑ってしまった。


心配性だなぁ、この人。
「わざわざ心配してくれてありがとうございます。でも少しこの女の子と話をしていただけで…」



振り返れば、少女はいなかった。早い…忍者みたい。どこへ行ったんだろう。迎えが来るらしいし…近くに住んでる子なんだろうけど。



エマ――…あの名前は墓場で見た名前と同じだと、私はふと思い出した。



「まったく。仕事が一段落したから浜辺に誘おうと思っていたのに…」



ぶつぶつ文句を言いながら私の手を握って来た道を戻るエリック。いつもしていることなのに、妙にくすぐったく感じた。



「そうなんですか。お疲れ様です」



2人並んで海辺へ歩いていく。夕日が綺麗だ。…ここで告白しようとか考えてそう。意外とロマンチストなエリックなら考えてそう。なんか袋持ってるし。…プレゼントなんだろうな。


……でも、今なら怖くない。



「その袋、何が入ってるんですか?」



私から聞いてやると、エリックは慌てたようにこちらを見た。