桜花彩麗伝


「朔弦さまは────」

「何を話してるんすか?」

 春蘭が口を開きかけたそのとき、不意にそんな声が響いてきた。
 音も気配もなくいつの間にか扉口のあたりに佇んでいた旺靖は、何の色もない表情でこちらを眺めている。
 壁にもたれかかるようにして立ち、朔弦に言う。

「面会禁止って布告(ふこく)したはずなんですけどね。謝大将軍に報告しましょうか? いますぐ出てくってんなら見逃してあげてもいいですけど」

「旺靖……?」

 普段と語り口を(こと)にしているせいか、どことなくまとっている雰囲気がちがうように感じられる。
 春蘭はつい不安気にその名を呼んだが、見知った旺靖の様子が戻ることはなかった。
 目の前にいるのは、軽薄(けいはく)ながら熱心で素直な親しみやすい彼ではない。

「…………」

 朔弦は同様の違和感を覚え、怪訝(けげん)そうに目を細める。
 懐疑(かいぎ)の眼差しを受けた旺靖は、微塵(みじん)も怯むことなくへらりと冷ややかに笑い返した。
 一連の様相(ようそう)を目の当たりにし、朔弦の中でひとつ腑に落ちたことがある。お陰で結論にたどり着いた。

「……なるほど。糸を引いていたのはおまえだったか」

 どうやら彼の体裁(ていさい)に騙され、その器と力量を見誤っていたようである。
 その韜晦(とうかい)ぶりは実に見事であった。

 突如として悠景が旺靖を重用(ちょうよう)し始めたのは、ほかならぬ彼が協力者であったためであろう。
 思えば柊州の州府でともに職務を果たしていた折も、その前後を含め妙な動きを見せることがあった。蕭家所有の領地の権利書が消えた一件も、彼であれば造作(ぞうさ)ない。
 いまでこそ過去の話として責めるまでもないが、当時は蕭家に寄生していたのかもしれなかった。
 何とも卑怯なやり口であるが、厄介で狡猾(こうかつ)な性分はいっそ賞賛に値する。
 己が矢面(おもて)に立つことなく、危険を(おか)さず目的を果たせるのだから。

「いまさら気づくなんて、やっぱ将軍は甘いですねぇ。……ま、どうでもいいや。既に矢は放たれた」

 おもむろに笑みを消した旺靖は、ぞっとするほど冷酷な顔をする。

「ほら、早く出てけよ。おまえはもう用なしなんだから。お嬢に余計な入れ知恵されても困るしな」

 雑な仕草を(もっ)て親指で外を指した旺靖は、もはやその本性を隠そうともしなかった。ぞんざいなもの言いで朔弦に言ってのける。
 その変貌ぶりにすっかり気圧(けお)された春蘭は、混乱したようにふたりを見比べた。
 彼は本当にあの旺靖なのだろうか。信じられない思いで不安に満ちた面持ちになる。

 朔弦は険しい表情をたたえたまま、しかし眉ひとつ動かさず扉へ向かった。
 部屋から出る寸前、足を止める。

「……春蘭」

 不意に呼びかけられ、はっと彼の方を見やった。

「わたしの言葉を忘れるな」