何事も挑む前から諦めていた煌凌を奮い立たせ、変わるきっかけをくれたのが春蘭であった。
 彼女と出会わなければ、恐らくいまも容燕の影で震え続ける惰弱(だじゃく)傀儡(かいらい)であったことだろう。

 彼による悪政(あくせい)終焉(しゅうえん)を迎え、不正を犯してきた傍若無人(ぼうじゃくぶじん)な蕭派官吏もひと通り処罰されるに至った。
 のさばっていたあくどい敵を一掃(いっそう)したが、平穏な世が訪れたとは言い難い。
 強敵を打ち倒しても、それまで息を潜めていた次なる敵が現れることとなろう。
 それが世の常である。だからこそ、自身は絶えず聖君(せいくん)を志すべきだ。
 幸いにもこの国には王を支える能吏(のうり)がさまざまおり、みなが忠誠を誓っている。
 彼らの心を得られたことこそ、煌凌の成した最たる大業であった。

「……煌凌。あなたに返さなきゃならないものがあるの」

 ふと改まった春蘭の声色に、煌凌はつい身構えた。
 もとより彼女が妃となり、自分のそばに身を置いたのは、悪辣(あくらつ)な蕭家を征伐(せいばつ)するという目的があったからこそである。
 いまや後宮に留まる理由もなくなったため、その座を返上するつもりなのではないかと不安に駆られた。

 おもむろに立ち上がった春蘭は、鏡台(きょうだい)の引き出しを開ける。
 桐の平たい小箱を手に戻ってくると、それを煌凌に差し出す。

「これは?」

「……遅くなっちゃったけど」

 彼女はそれ以上何も言わない。
 不思議がりながら受け取った煌凌は、そっとその蓋を開けた。中身を捉えた瞳が揺れる。
 玻璃(はり)でできた玉を抱える金龍と紺青(こんじょう)色の房の佩玉(はいぎょく)
 何度も焦がれた九年前の春の日が蘇る。目の前でひらりと、桜の花びらが踊った気がした。

「誠に、そなたが……あの……?」

 声も両手も震えてしまう。
 確信に近い予感を持て余していただけに、本当にそうであったと証明されたことへの衝撃が計り知れない。
 春蘭は煌凌に柔らかく微笑みかけた。

「ずっと待ってたのよ、本当は。あなたのこと」

「春蘭……」

 弾かれたように動いた煌凌は思わず抱き締めた。愛おしげに引き寄せる。

 再会の約束を反故(ほご)にしたのは紛れもなく自分自身である。玉座を守ることを優先した、煌凌のわがままだ。
 名を聞かなかったことを後悔した。会おうにも捜そうにも、当時の彼はあまりに幼かった。
 唯一自由を享受(きょうじゅ)できた夢の中で会うほど、記憶の限り少女を思い出すばかりの日々が募るほど、孤独ゆえの幻だったのではないかと気落ちした。

 決してそんなことはなかったのだ。
 九年前も、再び出会ったいまも、春蘭はただひたすらに煌凌の心に寄り添ってくれていた。“好き”の形が変わるまで。想いが満ちるまで。
 王ではない自分を見出し、最初に目を合わせてくれたのは春蘭だ。

「よかった。もう一度、あなたを見つけられて」

 心地のよい声が耳に届くと、そっと彼女を離した。視線が交わり、酔いしれるような熱を帯びる。
 わずかに顔を傾けた煌凌はゆっくりと、優しく口づけた。
 ────ふたりの影が重なったまま、夜が更けていく。