桜花彩麗伝




「芙蓉!」

 錦衣衛の一室へ、春蘭は駆け込んだ。
 泰明殿での王の判断と断罪には驚愕を禁じ得ず、戸惑いから立ち直ったわけではなかったが、とにもかくにもまずは彼女に会うことが先決であった。
 冷宮へ落とされれば這い上がることはできないであろう。
 二度と会えなくなる前に、最後に話しておきたかった。

「芙蓉……?」

 椅子へ腰を下ろす芙蓉は、卓子(たくし)に突っ伏していた。
 ほどかれた髪が顔を覆っており表情は窺えないが、脱力しているように見える。
 春蘭の呼びかけも聞こえていないのか、一切反応を示さなかった。

「おい、項垂(うなだ)れてる場合か……よ……って────」

 見かねてその髪を掴み、頭をもたげさせた櫂秦の声が途切れる。
 固く目を閉じている芙蓉の口から血が流れているのが見て取れた。
 慌てて顎を掴んで引き下げると、だらりと垂れた舌からさらに鮮血があふれる。
 櫂秦は息をのみ、紫苑も瞠目(どうもく)した。春蘭は思わず手で口元を覆う。

「そんな……」

 一歩、手遅れであった。
 春蘭の到着を待たずして、芙蓉は舌を噛んで自害していた。
 弾かれたようにあとずさった櫂秦は「誰か呼んでくる!」と、そのまま部屋を飛び出していく。
 春蘭と紫苑は呆然とその場に立ち尽くした。

「お嬢さま……」

 瞳を揺らがせながら、春蘭は力なく踏み出す。
 ゆっくりと震える手を伸ばし、その肩に触れた。まだ温もりが残っているが、耳を寄せても心音は聞こえなかった。
 もう一方の手を頬に添える。乾いていない涙を親指で拭ってやった。

「……ごめんね」

 ひとりでに言葉がこぼれ落ちる。不意に込み上げた涙で目の前が滲んだ。

「ごめんなさい」

 近頃、心の大半を占めていた暗雲のような感情を置き去りに、激しい後悔ばかりが沸き立った。
 宮廷へ、後宮へ、恐ろしいこの魔窟(まくつ)へ連れてきたばかりにこんなことになってしまったのだ。
 春蘭が妃など志さなければ、いまも鳳邸で平穏な日々を送っていたかもしれない。
 芙蓉の淹れてくれた茶を飲み、(いち)へ出かけては彼女に手を引かれながら店を回る、そんなささやかながら幸せな日々を。

 壊したのは、自分だ。
 彼女を変えてしまったのも、死に追いやってしまったのも、何もかも自分のせいだ。

「ごめんね。ごめんね、芙蓉……!」

 あふれた涙が伝い落ちていく。春蘭は泣きながら、動くことのない芙蓉を抱き締めた。
 最期に彼女が何を思ったのか、どうしてこんな選択をしたのか、春蘭には推し量ることしかできない。
 最後の最後まで、芙蓉は自分を憎み、恨んでいたかもしれない。
 以前、彼女に投げかけられた(やいば)のような言葉が脳裏(のうり)を切り裂く。

 それでも、確かに大切な存在だった。
 長きにわたりともに過ごしてきた、友であり家族でもあった。
 いまさら気がつく。一度、立ち止まって(かえり)みるべきであったと。
 いつしか彼女の存在は当たり前となり、その心さえ分かった気になっていた。
 傲慢(ごうまん)な思い上がりでしかなかったのに、図らずもずっと(ないがし)ろにしていたのだ。