桜花彩麗伝

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 ぱりん! と甲高い音を立て、床に投げつけられた蓋碗(がいわん)が割れる。
 玉漣殿の女官たちは戦々恐々(せんせんきょうきょう)としながら、すこぶる機嫌の悪い主の扱いに困り果てていた。
 続けざまに茶壷(ちゃふう)まで引っ掴み、振りかぶった帆珠を千洛が慌てて制する。

「淑妃さま……! どうか落ち着かれませ」

 縋るような彼女を一瞥(いちべつ)した帆珠は一瞬ますます気色(けしき)ばんだが、沸騰した熱を吐き出すかのごとくため息をついた。
 ゆるりと腕を下ろし、円卓に茶壷を戻す。
 いくらものに当たったところで、この怒りはおさまりそうもなかった。

「あの女……」

 もたれかかるようにして卓に載せた手を強く握り締める。
 芙蓉のことを思うと、(はらわた)が煮えくり返った。

 交わした密約の通り、彼女が自分の復位(ふくい)のために手を尽くしてくれたことは知っている。
 しかし、かくして無事に目的を果たした以上、帆珠は約束にも見返りにも既に無関心となっていた。
 側室への推挙(すいきょ)を迫られれば適当にあしらうか、面倒なことへ発展しそうであれば、口封じのため人知れず始末してやろうとさえ思っていたほどである。

 彼女はしかし、それを予期していたかのごとく、自ら王に取り入ってみせた。
 後ろ盾のない彼女が側室となったところで脅威になどならないと高を括っていたが、まったくの咄咄怪事(とつとつかいじ)である。
 春蘭に飽きを(きた)した王が次なる女人に目をつけ、そんな芙蓉に注ぐ寵愛(ちょうあい)はかつて春蘭に向けられていたそれを凌ぐと噂されるほどであった。
 王が後見(こうけん)とあらば、誰も迂闊(うかつ)に手を出せない。

「どうすればいいのよ……! 貴妃に構ってる場合じゃなくなったじゃない。(しゃく)(さわ)るわね、どいつもこいつも!」

 春蘭は言わずもがな、芙蓉にも王にも腹が立つ。特に、欲深い狡猾(こうかつ)な泥棒猫の思惑にまんまと(はま)り、さっさと後宮へ召し上げた王の愚かさには辟易(へきえき)とした。
 彼女が素朴な侍女という立場を利用し、同情を誘うような文句を用いて(そそのか)したにちがいない。
 外見に派手さはなく目を引くほどではないが、それなりに飾り立てれば様になるであろう。
 そんな控えめで純朴(じゅんぼく)そうな見てくれにも、王は騙されているのかもしれない。

「……千洛、いいこと? 才人なんかになっていい気になってるあの女に、化粧を施すことを禁じなさい。装飾品を身につけるのもだめよ。これを破ったら、後宮のしきたりに(のっと)ってわたしが厳しく罰するからそう告げて!」

「は、はい。承知しました、淑妃さま」

 なんと地味な嫌がらせだろうかとは思うが、そうでもしなければ憂さ晴らしもできない。
 おずおずと千洛が下がっていくと、帆珠に取り次ぎの声がかかる。
 玉漣殿を(おとな)ったのは、父の容燕であった。