桜花彩麗伝


『そなたは余の……唯一で、一番だ』

 あの言葉は嘘だったのだろうか。
 それとも、知らぬ間に心変わりしてしまったのだろうか。
 これまで幾度となく、散々、身に余るほど注がれてきたはずの親愛の情が、いつの間にか蒸発して空っぽになっていた。

 つと、視界が透明に流れる。
 頬を伝った涙は冷たく、ゆっくりと落ちていった。

「…………」

 その涙を見た朔弦は眉根に力を込める。
 ────人の心は分からないものだ。それは春蘭への警告であると同時に自身への(いまし)めでもあった。
 当初抱いた嫌な予感は的中し、警戒していた通りに侍女の芙蓉が強欲で狡猾(こうかつ)な本性を現した。

 しかし、まさか王の心までもが移ろうとは。
 とんと失望させられたものである。一時は見直したが、その評価は地に落ちた。
 半ば王に見切りをつけながら、静かに口を開く。

「……こんなことなら、おまえが後宮へ留まる必要はない」

「朔弦さま……」

「泣くほど辛いなら、いますぐ辞しても構わない」

 春蘭は揺れる双眸(そうぼう)に彼を捉えていた。朔弦なりに最大限気遣ってくれているのだと分かる。

 煌凌のこと、芙蓉の裏切り、すべてを忘れて鳳邸へ逃げ帰れば、確かに心は軽くなるのかもしれない。
 しかし、それは成すべき目的を諦めることと同義である。
 ほかでもない()のためには、蕭家勢力を一掃することが何よりの大義であろう。そこに私情を挟むべきではない。

「……いいえ」

 涙を拭った春蘭は毅然と顔を上げる。

「わたしは諦めたくありません。王に尽くすことが、わたしの役目ですから」

 妃とて王に仕える(おみ)のひとりで、民のうちである。
 自分がここへ来たのは、王が煌凌だからではなかったはずだ。
 持ちうる力を振るい、目的を果たさなければ。
 その本分さえ念頭(ねんとう)に置いておけば、余計に傷つくことなく済むかもしれない。

「……そうか。だが、あまり気負うな」

 彼の心遣いをありがたく思いながら頷くと、朔弦は「それと」と言を繋ぐ。

「あの暗君(あんくん)もそのうち目が覚めるはずだ。おまえといたときに見せた顔が偽りだったとは、わたしには思えない。だから……泣くな」

 はっと思わず目を見張った。いつになく優しげな声色が(すさ)んだ心に染みていく。
 しかし、期待するほどに負う傷は深いと思い知らされたいま、素直に煌凌を信じることはできなくなっていた。
 それでも、今夜は彼が会いにきてくれてよかった。その言葉に救われた。
 やわく笑みをたたえる。

「ありがとうございます、朔弦さま」

 心から告げると、彼は少しく口端を上げて頷き返した。