桜花彩麗伝


 後宮を抜けた先にある蓮池に出ると、そこに人影を認めた。
 どきりと心臓が跳ねる。

 まさか、本当にここで()邂逅(かいこう)を果たすことができるとは思わなかった。
 女官たちの間に流れる“あの噂”は事実であったようだ。
 そんなことを思いながら、どこか緊張に胸を高鳴らせ、芙蓉は彼に歩み寄る。

 ────近づいてくるほのかな灯りに気がついたのか、彼はゆるりと振り向いた。

「そなたは……」

 夜着(よぎ)を引っかけ、軽く髪を結わえたのみといった砕けた格好だが、その群を抜いた眉目秀麗(びもくしゅうれい)さは光輝(こうき)を放って見えた。
 間近で目にかかったのは初めてではないが、春蘭の側仕(そばづか)えであるいち女官としてではなく、芙蓉として向き合ったことに自然とどこか気後(きおく)れしてしまう。
 しかし、それはあくまで前提だ。これからは当たり前となる。
 芙蓉は慌てたように膝をついてみせた。

「主上……! 無断でご尊顔(そんがん)(はい)した無礼をお許しください」

「構わぬ、気にするな。ほら、立つがよい」

 差し伸べられた手を借り、そろりと立ち上がる。
 かように下賎(げせん)な自分にまで分け隔てなく接してくれるとは、と感激を覚えかけ、即座に打ち消した。
 自身を卑下(ひげ)する癖はもうやめなければ。

「そなたは確か、桜花殿の女官であったな」

 ふと口にされた王の言葉に、はっと顔を上げる。
 まさか覚えてくれているとは思わなかった。

「さ、左様です」

「こたびのこと……春蘭の身に起きたことは、そなたもさぞ心配であったろう」

「…………」

 芙蓉は神妙な面持ちの裏でうんざりとしていた。何かにつけ、誰も彼もが彼女のことばかり────もうたくさんだ。
 そんな感情の揺らぎから、つい口を滑らせる。

「ですが、蕭淑妃さまのお陰で回復なされてよかったです。実を言いますと、あの薬材はわたくしめが直々(じきじき)にお預かりしました」

「……そなたが?」

 煌凌は訝しげに眉を寄せる。
 彼女が薬包(やくほう)を持ってきたときに口にしていたことと話がちがう。

 一方で芙蓉は得意気な笑みをたたえていた。
 とにもかくにも春蘭が全快したことに王は心底安堵しているはず────たとえよく思っていない帆珠の功であれ、こうなっては帆珠に感謝せざるを得ないであろう。
 さすれば、彼女に積極的に協力したという事実が芙蓉の手柄になる。
 そう踏んでのことであった。

「淑妃と親しいのか? なにゆえだ」

「そのような、滅相(めっそう)もございません。ただ、淑妃さまはわたくしめに同情してくださっているのです」

「なに……?」

 話が見えなくなり、煌凌は不可解そうな顔をする。
 芙蓉は沈痛(ちんつう)な表情を作ってみせた。

「鳳貴妃さまを深くご寵愛(ちょうあい)なさる主上には信じていただけないかもしれませんが……鳳貴妃さまは、下の者に厳しく辛く当たるお方なのです」