桜花彩麗伝


「また、施療院で賃仕事(ちんしごと)をなさるのですか?」

「そうそう。万年人手不足だし、誰かの役に立てるって実感できるいい仕事だよ」

「患者はみんな驚くだろーな。まさか親王サマがそんなとこで奉仕してるなんて」

「はは、それはここだけの秘密にしておいてくれ」

 からかうような櫂秦に苦笑を返す光祥を、春蘭はじっと眺めた。

 自由に生きているいまが一番楽しい、といつか言っていたことを思い出す。
 そんな彼に親王という座はあまりに重く、宮廷で明かし暮らすこともさぞ窮屈で性に合わないことだろう。
 当初は意思によらず宮殿を追われる羽目となったが、結果として宮外での奔放(ほうぽう)な生活に魅入られたことは事実のようだ。

「……煌凌は寂しがったんじゃない?」

 ふと、彼が仔犬のように消沈してとぼとぼと肩を落とす様が浮かんだ。
 春蘭の言葉を、果たして光祥は首肯(しゅこう)する。

「ああ。宮廷を出ることを伝えたら、はじめはひどく落ち込んでたよ。だけど、思いのほかあっさり納得してくれたかな」

 それが兄上の望みなら────と、煌凌は俯いたまま素直に引き下がった。
 本当はもっと長い間、叶うならばずっと、煌翔には宮に留まっていて欲しいと願っていたはずである。そばにいたい、と。
 分かっていた。分かっていながら、煌翔はそんな健気(けなげ)な弟を傷つける選択をした。
 ほかでもない“王”のために。
 自分の居場所は、ここではないから。

 あっさりと、など嘘だ。煌凌が本心(わがまま)をこらえ、必死に無頓着(むとんちゃく)を装っていたからこそ、その本意に気づかないふりをした。
 彼自身の裏表のない純粋な思いとは裏腹に、煌翔が宮殿に留まれば留まるほど、煌凌の座を揺るがしかねない。
 その存在自体が、そばにいるだけで毒となる。

「……まあ、でもきっと、今夜はいじいじと部屋の隅っこで寝入るだろうから、よかったら慰めにいってあげてよ。僕の代わりに」

 清々しいほどの笑みで言われ、気づけば春蘭も自ずと頬を綻ばせていた。

「ええ、茶菓(ちゃか)でも持って会いにいくとするわ」

 その言葉に光祥が頷いたとき、不意に「あれ」と聞き覚えのある声が響いてきた。
 軽やかな調子で駆け寄ってきたのは旺靖である。もの珍しそうに光祥に目をやっていた。

「鳳貴妃さまに親王さま! お目にかかれて光栄っす」

「どうかしたの? 旺靖」

「いえ、ちょっと訓練を抜け出したとこなんすけど……。てか、どうしたんすか? そのお姿」

 用があって桜花殿を(おとな)ったわけではなく、偶然通りかかったようだ。
 怠けて休んでいる手前、曖昧に笑って誤魔化そうとしたが、光祥が素朴な格好でいることへの疑問が(まさ)った。

「宮廷を出ることにしたんだ。もう親王なんて呼ばなくていいよ」

「えっ!?」

 驚愕の表情を浮かべる旺靖に構わず、光祥は続けて春蘭に向き直る。

「じゃあ、僕はもう行くよ。またどこかで会えたら」

「ええ、またね」

 にこやかに手を振る彼に笑顔で頷き返すと、微塵(みじん)の名残惜しさも見せずに踵を返した。
 以前とは異なり、永劫(えいごう)の別れをにおわせるものでもなければ、実際にそのつもりもなかった。
 振り向くことのない背を見送っていると、はっと旺靖が我に返る。

「あ……じゃあ俺、ちょっと宮門までお送りしてきますね。失礼します!」

 慌ただしく一礼したかと思うと、目にも留まらぬほど素早く飛んでいく。

「……何だったのかしら」

「さあ……?」

 腰に手を当て、櫂秦は首を傾げた。
 それぞれ困ったような呆れたような表情をたたえ、遠ざかるふたりを眺めるのであった。