瞠目した瞳からまた一筋、涙が伝う。
ふと頬を緩めた春蘭の柔らかい微笑が心に深く染みた。
それから彼女は怒ったように眉をひそめる。
「悪いのは白文禪でしょ? 恩を売って搾取しようなんて、あくどいにもほどがあるわ」
善悪の判断すらままならないような幼い子どもや弱い者を騙し、利用し、支配した上で、自身の都合に応じて易々と切り捨てる。
紫苑の言う通り、橙華はそんな文禪の身勝手に巻き込まれ、蹂躙された被害者でしかない。
浮き彫りとなった文禪の悪辣なやり方には、不快感を禁じ得なかった。
「ということは、お嬢さま……」
「ええ、橙華を連行する許可は出せない。ここでは“何も起こってない”んだから。そうでしょ?」
朗々と言ってのけた春蘭に、その場にいた面々は一瞬、呆気に取られた。
ほどなくして櫂秦が強張りをほどく。
「まあ、そうだな。俺は何も見てねぇし」
そう言って紫苑を窺うと、彼は聞き分けよく目を伏せる。
「わたしはお嬢さまの意に従うのみです」
それぞれの言葉に春蘭が安堵したように笑むと、驚いた様子で三人を見やった橙華は再び瞳を潤ませた。
ありがたいやら申し訳ないやらでこらえきれずに感極まると、春蘭がいっそう力を込める。
「心配しないでね、橙華。わたしたちが守るから」
◇
一夜明け、桜花殿でのひと騒動は夜闇とともに深淵へと沈んでいった。
朝議のため泰明殿へ集った臣たちは、参殿してきた王に揃って頭を垂れる。
中央を進んだ彼が凜然たる面持ちで玉座へ腰を下ろすと、まず口火を切ったのは鳳、蕭の両派閥に属さない老臣であった。
「主上、よろしいですかな」
「何だ?」
「国の母たる“王妃”の座が空席のまま、ご側室のみがいらっしゃる現状は由々しきものでございます」
もっともらしい主張を受け、ふと煌凌は笑う。思わずこぼれたその笑みは、いつになく冷ややかなものであった。
「だから、正妃を迎えろと? またしても余にさような戯言を申すか」
「主上」
「先の妃選びはそもそも、そなたらの進言を重んじて行ったものであろう。結果が気に入らぬからと仕切り直しを強いるのか」
「そうではなく────」
「あれも結局は政争に利用された。私利私欲のため、政局を覆そうと目論む連中があとを絶たぬのに、繰り返すわけにはゆかぬであろう」
春蘭が後宮にいる限り、妃選びを再び催すつもりなど煌凌はいささかも持ち合わせていなかった。
堂々たる振る舞いで言を返すと、殿内には水を打ったような静寂が落ちる。
ややあって、空気を割るような拍手の音が響いた。
賞賛というよりは取り鎮めるように緩慢とした手の打ち鳴らし方で、冷笑を浮かべながら老獪な臣が歩み出る。
彼もとい容燕は静かに口を開いた。
「落ち着かれませ、主上」
「容燕……」
「何も、主上の大事になさっている鳳婕妤をどうにかしようと申しているわけではないのですから。ひとまずこの者の話を聞いてみましょう」



