桜花彩麗伝


 春蘭は「え……」と掠れた声をこぼす。想像だにしない、あまりに衝撃的な言葉をすぐには受け止めきれない。
 しかし、橙華に目をやっても一向に否定や弁解をする気配はなかった。
 ただ身を小さく、頭を低くしながら震えているのみである。

「……おい、本当なのか」

「……っ」

「黙ってねぇで何とか言えよ」

 苛立っているというよりは戸惑っているような硬い声色であったが、櫂秦の気迫(きはく)を受け怯んだようにさらに身を強張らせた。
 容易ならざる状況ではあるが、彼女の機微(きび)を肌で感じ取った春蘭はほどなく衝撃から立ち直ると、寝台から下りて歩み寄った。
 平伏(へいふく)する橙華のもとへ屈み、その背に手を添える。

「……橙華。いったい何があったの?」

 その労るような声音に紫苑は眉を寄せた。弁明の余地など与えるまでもないはずだ。
 思えば彼女には以前から不可解な点があった。ともに宮外へ出た折にとっていた不自然な行動も、橙華が()()()女官ではないことを裏づけていたように思う。
 今回は間に合ったといえど、彼女の思惑を事前に看破(かんぱ)できなかったことが不甲斐なく悔やまれる。

「婕妤さま……。わたし、は……」

「落ち着いて。ゆっくりでいいから、話してみて」

 恐る恐るといった具合で頭をもたげた橙華は泣いていた。両の瞳いっぱいに溜まった涙がとめどなくあふれていく。
 何かに怯え、それでいて己の所業を猛省(もうせい)しているようでもある。
 それを目の当たりにした紫苑はさすがに認識を改め、櫂秦も黙って成り行きを見守った。

「申し訳ございません……。わたしは、ただ……文禪さまの命令で……」

 やがて明かされた黒幕の名には、もれなく驚愕させられた。
 何度も謝罪を口にしながら、涙とともに語り出す────。

 もともと身寄りのなかった幼い橙華を拾ったのが、ほかならぬ白文禪であった。
 小間使(こまづか)いとして連れてこられたのは桜州にある白家別邸。いまでこそ閑散としているが、当時はそこに文禪の(めかけ)が数人暮らしており、奉公人たちが何人も忙しなく働いていた。
 手入れの行き届いた庭院(ていいん)には鮮やかな花が咲き乱れ、屋敷そのものの造りも雅致(がち)で美しい。
 しかし橙華には、なぜかひどく寒々しく()せて見えた。

 ────毒々しく敵対的な妾たちの化粧品や香り袋から漂う、甘ったるいにおいに嫌悪感と吐き気を覚える。
 まめまめしく働くうちに、ここがどういう場所でどういう人間が集まっているのか、橙華も何となく理解し始めた。
 (ふるい)のようなところであった。それも、残飯を汁物と分離するための篩である。

 この別邸に住まう文禪の側室たちはみな、自分自身が“残飯”であることを自覚している。
 いつ捨てられてもおかしくないと理解している。
 だからこそ現状にしがみつき、網目の隙間からすり抜けて落ちてしまわないよう必死なのだ。

 誰もが己のことしか考えていない。
 他人を蹴落とすのに余念(よねん)がない。
 醜い嫉妬や焦りを化粧で隠し、余裕を装うために美しく着飾る。