◇
深更、桜花殿の灯りが消えた。
女官や内官が下がり、春蘭が眠りについたことを確かめた橙華は、暗闇の中で扉から身を滑り込ませる。
その手に銀の簪を握り締め、音を立てないよう寝台へと慎重に歩み寄った。
『そなたがその手で婕妤を殺してしまえ』
文禪の冷ややかな言葉を反芻するたび、頭の内側を槌で殴られているような気がする。
あまりに恐ろしい命令におののき、寒気が止まらなかった。
不安定な呼吸を繰り返しながら、ぎゅっと手に力を込める。
丸窓から射し込む月明かりに頼らずとも闇に目が慣れ、難なく寝台へとたどり着くことができた。
穏やかに目を閉じ、眠る春蘭を見下ろす。
簪を握り締める手が、全身が震えた。心臓が早鐘を打ち、背を冷や汗が伝っていく。
(ごめんなさい……。ごめんなさい……。お許しください……)
必死に唱えると、簪を振り上げた。
無防備な首筋に狙いを定め、鋭尖な先端を突き刺そうと勢いをつける。
「!」
その瞬間、目の前でぎらりと何かが光った。
青白い月明かりを弾いたのは白刃である。
橙華の首筋にあてがわれたそれは、少しでも身じろぎしようものなら鋭利な切り傷を刻むことであろう。
「……何をしている?」
からん、と手から滑り落ちた簪が音を立てる。
橙華は恐る恐る振り向いた。
「紫苑、さん……」
「答えろ。いま、何をしようとしていた」
普段の静穏な雰囲気は見る影もなく、殺気立つような怒りを顕にしていた。
もともと室内にいたのか、不審な動向の橙華を追って警戒していたのか、それさえ分からないほど完璧な気配の消し方であった。
こうして刃を向けられるまで、その存在にはまったく気がつかなかった。
反応次第ではこの場で切り捨てられることになろう────橙華は慌てて床に膝をつき、くずおれる。
力が抜けて崩れ落ちた勢いのまま、土下座の体勢をとった。
「すみません……すみませんでした! わたしが……わたしの、せいで……っ」
あまりに悲痛な声色に、さすがの紫苑も刹那、呆気に取られる。
それでも油断なく剣先を向けながら、小さくなって震える橙華を見下ろした。
「ん……」
何ごとかを言う前に、不意に春蘭が目を覚ました。
声を聞きつけたのか、扉の外から蝋燭片手に櫂秦も飛び込んでくる。
「何だ? 何かあったのか?」
蹲る橙華に剣を向ける紫苑、という異様な光景を、ふたりして仰天しながら認めた。
彼女からそれ以上の害心を感じられず、紫苑は素早く鞘に剣をおさめる。
床に落ちていた簪を手に取り、謹厳な面持ちで春蘭に向き直った。
「お嬢さま。橙華を捕縛し、連行するご許可を」
「え……?」
即座に意味を理解できず、春蘭は眉を寄せたまま紫苑と彼女を見比べる。
ただならぬ事態に見舞われていることだけは分かった。いずれの態度も尋常ではない。
「何が、あったの?」
「……橙華がお嬢さまのお命を狙ったのです」
深更、桜花殿の灯りが消えた。
女官や内官が下がり、春蘭が眠りについたことを確かめた橙華は、暗闇の中で扉から身を滑り込ませる。
その手に銀の簪を握り締め、音を立てないよう寝台へと慎重に歩み寄った。
『そなたがその手で婕妤を殺してしまえ』
文禪の冷ややかな言葉を反芻するたび、頭の内側を槌で殴られているような気がする。
あまりに恐ろしい命令におののき、寒気が止まらなかった。
不安定な呼吸を繰り返しながら、ぎゅっと手に力を込める。
丸窓から射し込む月明かりに頼らずとも闇に目が慣れ、難なく寝台へとたどり着くことができた。
穏やかに目を閉じ、眠る春蘭を見下ろす。
簪を握り締める手が、全身が震えた。心臓が早鐘を打ち、背を冷や汗が伝っていく。
(ごめんなさい……。ごめんなさい……。お許しください……)
必死に唱えると、簪を振り上げた。
無防備な首筋に狙いを定め、鋭尖な先端を突き刺そうと勢いをつける。
「!」
その瞬間、目の前でぎらりと何かが光った。
青白い月明かりを弾いたのは白刃である。
橙華の首筋にあてがわれたそれは、少しでも身じろぎしようものなら鋭利な切り傷を刻むことであろう。
「……何をしている?」
からん、と手から滑り落ちた簪が音を立てる。
橙華は恐る恐る振り向いた。
「紫苑、さん……」
「答えろ。いま、何をしようとしていた」
普段の静穏な雰囲気は見る影もなく、殺気立つような怒りを顕にしていた。
もともと室内にいたのか、不審な動向の橙華を追って警戒していたのか、それさえ分からないほど完璧な気配の消し方であった。
こうして刃を向けられるまで、その存在にはまったく気がつかなかった。
反応次第ではこの場で切り捨てられることになろう────橙華は慌てて床に膝をつき、くずおれる。
力が抜けて崩れ落ちた勢いのまま、土下座の体勢をとった。
「すみません……すみませんでした! わたしが……わたしの、せいで……っ」
あまりに悲痛な声色に、さすがの紫苑も刹那、呆気に取られる。
それでも油断なく剣先を向けながら、小さくなって震える橙華を見下ろした。
「ん……」
何ごとかを言う前に、不意に春蘭が目を覚ました。
声を聞きつけたのか、扉の外から蝋燭片手に櫂秦も飛び込んでくる。
「何だ? 何かあったのか?」
蹲る橙華に剣を向ける紫苑、という異様な光景を、ふたりして仰天しながら認めた。
彼女からそれ以上の害心を感じられず、紫苑は素早く鞘に剣をおさめる。
床に落ちていた簪を手に取り、謹厳な面持ちで春蘭に向き直った。
「お嬢さま。橙華を捕縛し、連行するご許可を」
「え……?」
即座に意味を理解できず、春蘭は眉を寄せたまま紫苑と彼女を見比べる。
ただならぬ事態に見舞われていることだけは分かった。いずれの態度も尋常ではない。
「何が、あったの?」
「……橙華がお嬢さまのお命を狙ったのです」



