「わたしに、兄が……」
衝撃を受けたように呟かれた声を聞き、はたと現実へ立ち返った紫苑は小さく頭を下げる。
「いままで黙っていて申し訳ありませんでした、お嬢さま」
「ううん、どうしてあなたが謝るの。誰も何も悪くないでしょ」
ひと通り聞き終えた櫂秦は腑に落ちた。
いずれ春蘭に伝えなければならないことがある、と言っていたことの中に、この話も含まれていたのであろう。
ふと、彼女を見やる。
蝶よ花よと育てられ、何不自由なく暮らす、苦労知らずで裕福な令嬢であるとばかり思っていた。
明るさも気高さも、恵まれた運命と幸せな過去の賜物であると思っていた。
ちがっていたのだ。春蘭は何も、すべてを手にしてはいない。
自身も知らないところで、力及ばぬところで、決して小さくないものを少なからず失っていた。決して戻ることのない、尊いものを。
……ぽん、と櫂秦の手が春蘭の頭に載った。
いまばかりは紫苑も咎めなかった。
「な、なに?」
「いや、何か……おまえも色々背負ってんだな」
「何よ、急に……って、わ、やめてよ! せっかく芙蓉と橙華が結ってくれたのに」
わしゃわしゃと髪をかき混ぜてやると、怒られた。
気にするべきはそこではないと思うのだが、過去が知れたことにどこか安堵しているようにも見えた。
紫苑もまた、明かしたことを後悔してはいないようである。
それだけでも、踏み込んでよかった、と櫂秦は思う。
辛くないとは言えない事実でも共有すれば、多少は肩の荷が下りるというものだ。
“知らない”ことに救われてもいたのであろうが。
「そうだ、その辺にしておけ。いまのお嬢さまに触れていいのは陛下だけだ」
ぱし、と紫苑に腕を払われた。
いくらか表情に宿っていた翳りが晴れている。春蘭の顔色が戻ったことにほっとしているのだろう。
「へいへい、わーったよ」
櫂秦は大人しく引き下がっておくこととした。
しかし、今回知れたのは、あくまで過去の一端に過ぎない。
春蘭の抱える秘密そのものにはたどり着く気配もなく、その点は依然として謎に包まれたままだ。
それでも、彼女はこれを機にするつもりはないようである。これ以上、話す気はなさそうに見えた。
ともに背負うには、自分たちでは不足なのであろうか。
(こいつも……)
ちら、と紫苑を一瞥する。
(こいつはこいつで、何を抱えてんだ?)
彼に関しては、その過去の片鱗に触れることもできていない。
踏み込むことをことごとく拒絶される。
得体の知れない、話せないような何かを抱えているのは間違いない。
いったい、いつになれば本当のふたりと顔を合わせられるのだろう。
「…………」
紫苑は、探るような櫂秦の視線に徹底して気づかないふりを決め込んでいた。
いまの彼にも、春蘭にも、話せることはない。
己の過去は、ひとりで背負う。
それが、ここにいるための条件であり、宿命であることを自覚していた。



