桜花彩麗伝


「ともかく、お祝い申し上げますぞ。このわたくし、今後とも容燕殿に心からの忠誠を誓いましょう」

 酒杯(しゅはい)を掲げ、言った。
 容燕は満足気に口端を吊り上げ、髭を撫でる。

 ────そのとき、バン! と勢いよく扉が開かれた。
 時が止まり、静まり返る。全員が一斉にそちらを向くと、そこには青い顔で息を切らせている航季の姿があった。

「父上……」

「こやつ! 酒をまずくする気か」

 容燕は不興(ふきょう)(あらわ)に航季を怒鳴りつけた。
 彼は反射的に素早く頭を下げる。酒杯が飛んでこないだけまだましであった。

「お許しを。火急(かきゅう)の事態が……!」

「何だ、申せ」

「え? しかし……」

 重臣たちの視線に晒され、航季は狼狽えた。
 この場で伝えてよいのだろうか。王に出し抜かれた、などと。
 妃選びの中止や春蘭が側室として迎えられた件を安易に告げては、容燕の力量を疑われかねないのではないだろうか。

 しかし、射るように冷酷な容燕の視線に耐えかね、口を開くほかなかった。

「実は、妃選びが急遽取り止めに。しかも……鳳家の娘が婕妤に迎えられました」

 静寂から一転、場がどよめきに包まれる。容燕自身もあまりに予想外で呆気に取られていた。

 太后や自分が働きかけて圧迫する前に、王は動いていたわけだ。
 機先(きせん)を制することにまんまと成功している。
 してやられた。そう思い至り、かっと顔に熱が走った。

「何たることだ! あの若僧め、生意気な……っ」

 ガン! と卓子(たくし)に拳を叩きつける。
 重臣たちは顔を見合わせた。
 非常事態への対処が急がれるだけでなく、確かに生意気な王に腹も立ったが、容燕の憤怒(ふんぬ)の火の粉が飛んでくる方がよほど恐ろしかった。
 八つ当たりでもされようものならたまったものではない。それぞれが己を守るべく身を低くしていた。

「……王に会わねば。そのような勝手な真似、許してなるものか」

 わななく容燕の(しゃが)れた声は、地底からせり上がるかのようであった。
 感情的になる段階を越えたのか、いっそ厳然(げんぜん)としてさえいる。
 烈火のごとく憤っているが、その炎は青く静かなものだった。
 ゆらりと立ち上がる。

「ぬぁああ!!!」

 突如としてその怒りが爆発した。容燕は怒鳴りながら、卓子(たくし)の上のものを薙ぎ払う。
 酒杯や皿の割れる激しい音とともに、床に酒がぶちまけられる。
 そんな一瞬の嵐が過ぎると、痛いほどの静寂に包まれた。
 卓子の端からぽたぽたと雫の滴る音だけが、途方もないこの静けさを埋めていた。