桜花彩麗伝

     ◇



 少し時を(さかのぼ)る。瑛花宮から王と春蘭が去り、朔弦も出ていった頃。
 帆珠の怒りは爆発寸前であった。
 あまりの憤りに思考や感情を奪われ、激情に支配される。
 親指の爪を噛みながら、荒々しい呼吸を繰り返していた。

 信じられない。許せない。
 先ほどの光景が何度も蘇り、そのたびに頭に血が上った。
 早く、一刻も早く父に知らせなければ────。
 容燕であれば何とかしてくれるはずだ。春蘭を潰すことも(やす)いだろう。
 そうして、この煮え立つような思いをさっさと鎮めたい。

 帆珠は衣を(つま)み、駆け出した。瑛花宮の門を潜り、表の往来(おうらい)へ飛び出す。

「帆珠!」

 偶然にもその場面を目撃した芳雪が、慌てたように呼び止めた。
 まだ帰宅を許可する(むね)の達しは出ていない。勝手に瑛花宮を出ることは許されない。

 振り向いた彼女は芳雪を捉えた。
 その瞳を冷淡に細め、舌打ちをする。

「構わないで」

 ふいと顔を背け、人混みを割るように駆け抜けていった。
 芳雪は門の木枠に手をかけ、小さく息をつく。……春蘭たちは大丈夫だろうか。
 帆珠が容燕に事の次第を伝えてしまう前に、どうか態勢を整えて欲しい。
 間に合うよう、切に祈った。



 蕭邸まで辿り着いた帆珠は、肩で息をしながら勢いよく門を叩く。
 開門されるなり中へと転がり込んだ。
 その姿を認めた千洛が「お嬢さま!?」と仰天したものの、構っている暇はなかった。

「父上は……父上はどこ!?」

「え? あ、旦那さまは宮殿にいらっしゃいますが……いったいどうなさったのですか? 何があったのです?」

「じゃあ、お兄さまは────」

 千洛の戸惑いを全面的に無視し、帆珠は航季を捜した。
 金切り声を聞きつけた彼が母屋(おもや)から套廊(とうろう)へ出てくる。
 帆珠がこの場にいることにも、取り乱したような態度にも、訝しげに眉を寄せた。

「帆珠?」

「お兄さま!」

 駆け寄ってきた妹と目線を合わせる。その瞳はひどく充血していた。

「どうした? なぜ帰ってきたんだ? 妃選びはまだ────」

「中止になったのよ!」

 帆珠は怒りを滲ませながらその言葉を遮る。肩で息をしていた。
 航季は妹が何を言っているのかを瞬時に理解できず、困惑したように瞬く。

「王が来たの、瑛花宮に。それで“妃選びは取り止める”って……。それだけじゃない。あの女を側室に迎えるって! ふたりで宮殿へ向かったわ!」