「…………」
紫苑はあえて顔を上げなかった。
まったくもってその通りだったのだ────朔弦の言葉は、恐ろしくなるほど的を射ている。
紫苑は武科挙を受けたくないし、そもそも受けられない。
櫂秦は「?」と訝しげにふたりを見比べた。
事情を掴めない煌凌はただただ不思議そうな表情を浮かべており、元明はわずかに眉を下げながら紫苑に目をやっている。
それ以上、朔弦がこの場で追及することはなかったが、改めて確信した。
彼は意図的に素性を隠している。
これほどまでの品位と才気を持ち合わせておきながらただの執事や用心棒だというのも妙であるし、姓もないなどおかしいと思っていた。
“紫苑”というのも偽名であろう。
何のために素性を隠し、偽っているのか。
春蘭はそのことを知っているのか。紫苑なる人物が本当は誰なのか。
確かめたいことは山ほどあるが、それはいまではない。
「……とにかく、俺たちは禁軍に入るんだな。下っ端でも宮中にいれば春蘭にも会えるわけだ」
「ああ。そこはうまく計らう」
朔弦は淡々と首肯する。
春蘭の居所の門番にでも任命するつもりであった。
ただ禁軍の兵士として宮中にいるより、よほど会いやすい。
煌凌は立ち上がり、面々を見回して言った。
「では、急ごう。春蘭を連れて王宮へ」
────一台の軒車が、宮門前に停まる。
二頭の青毛の馬から、それぞれ煌凌と朔弦が下りた。
朱色の女官服に身を包んだ芙蓉は、軒車の戸を開けると下がって控える。
歩み寄ってきた煌凌にてのひらを差し出され、自分の手を重ねた春蘭は軒車から降りる。
優しく手を引かれながら、宮殿へと足を踏み入れた。
ふたりと少し間を空け、朔弦があとに続く。
そのまた後ろを、芙蓉や女官たちがついて歩いていた。
春蘭は何となくいづらさを感じ始める。手を繋いだまま歩くのは、くすぐったい気持ちになって仕方がない。
「ここまでしなくていいんじゃない……?」
「仲睦まじく見せかけねばならぬ」
思わず小声で抗議するが、彼は取り合わなかった。
周囲にこちらの真の狙いを悟らせないためにも、王が色香に溺れていると思わせ油断させるためにも、王の庇護下にあることを見せつけ春蘭の権威を確立するためにも、あえて仲睦まじく振る舞うことは間違いなく有効であると言える。
筋の通った理屈に、春蘭はそれ以上の抗議を諦めるほかなかった。
宮中をしばらく歩くと、ひときわ閑静な場所へ出た。
本来は絢爛豪華、百花繚乱といった言葉がよく似合うはずの後宮である。
ひとりの正妃、四人の夫人、九人の嬪、二十七人の世婦、八十一人の御妻といった大勢を迎えるのがよしとされているが、いまの後宮は空っぽであった。



