桜花彩麗伝


「元気だけど……平気じゃなかった。大丈夫でもなかったわ」

 紫苑の前では“大丈夫なふり”をして強がる必要もなかった。
 春蘭は奥へ奥へと押しやっていた心情や感情を惜しみなく(あらわ)にする。
 遠慮がちにもたげた手で背中に触れ、紫苑は(なだ)めるようにさすってやった。

 その温もりに幼い頃のことが思い出される。
 春蘭が泣くと、いつも紫苑が飛んできてはこうしてくれたものだ。

「……お疲れさまでした、お嬢さま」

 計り知れないほどの苦労と困難を乗り越えてきたことであろう。
 それなのに結局は蕭家の毒牙(どくが)にかかり、すべて台無しになってしまった。
 元明は罷免(ひめん)。そして春蘭が帰ってきたということは、妃選びも中止。

 悔しく、腹立たしい。しかし、だからと言ってどうこうできる(すべ)が紫苑にはない。
 得るものなどなく、多くを失った────。

「……こほん」

 煌凌は咳払いをした。完全に存在を忘れ去られている。
 はっとした春蘭は紫苑から離れ振り向く。紫苑もその姿に気がつくと、とっさに頭を下げた。
 そうしてからふと思う。
 どこかで見た顔だ。いったい、どこだっただろう。

「元明はどこにいる?」

 今度は紫苑が唖然とした。既視感も忘れるほど。
 確かに罷免されたとはいえ、一介の公人(こうじん)の分際で元明を呼び捨てにするとは。

「あ、えっと……彼はこう見えて王さまなの」

 紫苑が眉をひそめたのに気づき、とり成すように春蘭が言う。
 煌凌は何となく誇らしげに胸を張った。

「王、さま?」

 言葉の意味を理解できなかった。春蘭は何を言っているのだろう?

「うむ。そして、春蘭の夫となる」

「……っはぁ!?」

 心底困惑したような声が降ってきた。
 驚愕に明け暮れたのは紫苑も同じだが、いまの声は確実に上から聞こえた。
 例によって屋根に登り、盗み聞き(彼に言わせれば“たまたま聞こえただけ”)していた櫂秦は、やべ、と手で口元を覆う。

「櫂秦! 久しぶり」

 春蘭は屋根の上を見上げ、嬉しそうに声を上げた。久々の再会に何だかほっと安心した。
 しかし、そんな場合ではない。
 素早く屋根から降りた櫂秦は春蘭に詰め寄る。

「久しぶり、じゃねぇよ。何がどうなってんだ? おまえが帰ってきたってことは、妃選びは中止されたんじゃねぇの?」

「ええ、中止されたわ」

「じゃあどういうことだよ? こいつが王で、おまえが嫁ぐって……」