桜花彩麗伝


 小さく謝るが、その対象は兵ではなかった。
 感情的になったことで、こちらの立場が悪くなったことに対して、である。

 ざわめく場に、殴られた兵の嫌味な笑い声が響いた。
 口の端に滲んだ血を雑な動作で拭い、彼は立ち上がった。

「まったく凶暴だな、この家の連中は」

 殴られてもなお、兵は悪態をつき続けた。
 むしろ拍車がかかり、ほかの兵たちにも鳳家への敵意が伝染していく。
 漂っていただけの空気が、ぴり、と尖ったのを肌が感じ取った。

「…………」

 門を閉じた紫苑は踵を返した。
 無言で母屋の方へ歩いていく彼を、櫂秦も追いかける。



「……珍しいな、おまえが熱くなるなんて」

 いつもは冷たいというわけではないが、基本的には冷静で英明(えいめい)である。
 感情はよく表に出すが、どこか一歩引いたような態度が否めない。
 それが普段の紫苑であった。
 溺愛する春蘭のことならいざ知らず、元明のことにまであれほど憤るとは意外だ。

「……怖くて、感情がまとまらない」

 ぽつりとこぼした紫苑は、さながら迷子の子どものように不安気であった。

 尊敬する元明が窮地に追い込まれそうで、敬愛する緋茜の死が利用され、命より大切な春蘭とは引き離され────そんな非日常が突如として覆い被さってきたのだ。
 揺れ動く現実は、紫苑の心情など(かえり)みてはくれない。
 理性を保ち続ける余裕はなかった。

「どうなるんだろうな」

 今度は櫂秦が呟く。下手な気休めは口にしなかった。
 分からない。
 今後、どうなるのか。どうすればよいのか。

 誰かに助けを求めれば、助けてくれるのであろうか。
 誰に頼ればよいと言うのだろう。せめて、この場に春蘭がいてくれたら────。

「…………」

 紫苑は蕭家に思いを()せる。巧妙(こうみょう)だと認めざるを得なかった。
 春蘭が瑛花宮にいるこの時期を見計らい、勝負を仕掛けてきた。
 元明を孤立させ、確実に追い詰めている。
 たとえ逃げても、そこは袋小路(ふくろこうじ)だろう。

 土壺(どつぼ)にはまっていくような感覚であった。
 元明の有罪が確定し、罷免されてしまったら……?
 どうすれば、この状況を打開できるのだろう。

 いくら元明が王の寵愛(ちょうあい)を受けていても、今回ばかりは見捨てられてもおかしくない。
 王とて己の立場を守らなければならない。
 罪人を擁護(ようご)すれば、つけ込まれるに決まっている。たとえ冤罪だとしても。
 王の庇護は期待できないだろう。

 紫苑は庭先で足を止める。宙を見上げ、息をついた。
 ……何だか無性に、春蘭に会いたい。