桜花彩麗伝


 黑影は慌てて駆け寄る。
 息も絶え絶えで苦悶(くもん)する航季を、容燕は虫けらでも見るような目で見下ろした。

 その冷酷な眼差しに込められた侮蔑(ぶべつ)の念が、刺すように彼を貫く。
 目眩がする。胸が痛む。激しい動悸がそれを助長させる。

「ち、……うえ」

 浅く、荒い息の合間で掠れた声を絞り出す。
 視界が歪み、何もかもの輪郭(りんかく)がぼやける。
 その中で、父が背を向けたのが見えた。

 ────いつも、そうだった。
 航季がいくら手を伸ばしても、容燕には届かなかった。
 父と呼んでも、冷たく背を向けられた。
 だから、自分では不足────兄の存在を越えられたなど、何と愚かしい勘違いをしていたのだろう。

「連れていけ」

 容燕が黑影に命じる。
 頷くほかなく、浅い呼吸を繰り返す航季を抱き起こすと、肩を支えて部屋を出た。



 庭院(ていいん)へ下り、深く息を吐く。
 張り詰めた空気から解放され、正常な息遣いを取り戻しつつあった。
 黑影は航季から離れ、頭を下げる。

「申し訳ありません。わたしのせいで、航季さまが────」

「やめろ。……おまえのせいじゃない」

 それについては容燕の言う通りだと、航季も思った。
 詰めの甘い、自分の責任である。それを棚に上げ、黑影に当たった。
 彼から心底申し訳なさそうに謝られると、ひどく惨めに感じられる。

 黑影は遠慮がちに航季の首を見た。
 押さえつけたように赤くなり、縦に走る傷と小さな弧がくっきりと刻まれている。
 苦痛を吐き出すように血が滲んでいた。
 あまりに痛々しく、目を逸らしてしまう。

「……計画は、中止でしょうか」

 案ずるような口調で話題を転換させる。
 航季は首を横に振った。

「父上なら、きっと断行する」

 一度構えた弓を、下ろすようなことはしない。
 既に引き返せないところまで来てしまった。
 結果として兇手(きょうしゅ)が命を落とした以上、()いた種は十分すぎるほど作用するだろう。

「……俺もやれるだけのことをやるしかない。父上のために」



     ◇



 鳳邸をあとにした朔弦は、参殿(さんでん)する前に密かに瑛花宮へ向かうこととした。
 元明から口止めされていることもあり、行き先を告げずに悠景と別れる。

 帆珠の意識が春蘭に向いていないことを確かめてから声をかけ、春蘭を裏手の庭院へ連れ出した。
 振り向いた朔弦は困惑顔の彼女を捉える。……元明には悪いが、一連の出来事と十五年前の事件については彼女にも伝えておくべきだ。

 不意に知る方が、余計に感情を揺さぶられる────そうなっては土壺(どつぼ)にはまってしまう。
 春蘭を苦しめることになるであろうが、先延ばしにしても同じことだ。
 下手に誤魔化すつもりなら、最初からここへは来ていない。