また、何か嫌味でも言われるだろうか。あるいは手巾をわざと池に落としたり、もう一度落として踏みつけたりするのではないだろうか。
頭にそんな考えが浮かんだ春蘭は咄嗟に身構えてしまう。
芳雪も帆珠に気づくと、立ち上がって警戒を深める。
実際、帆珠は何か困らせるようなことを言ってやろうかとも思ったが、容燕の言葉を思い出して踏みとどまった。
「夜風には気をつけることね」
手巾を軽く払うと、素早く綺麗に畳んで差し出した。
つっけんどんではあったが優しい言葉をかけられ、戸惑いに明け暮れてしまう。本当に帆珠なのだろうか。
「あ、ありがとう」
おずおずと受け取ると、彼女はそのまま立ち去った。
呆然と立ち尽くす春蘭のもとへ、月餅を片手に芳雪が歩み寄ってくる。
彼女もまた春蘭と同じように呆気に取られていた。
「……どういう風の吹き回しかしらね?」
芳雪は訝しむように言う。春蘭も首を傾げるほかなかった。
何にせよ、帆珠の好意的な態度は不気味でしかなく、胸騒ぎを覚えずにはいられなかった。
◇
────少し時を遡る。
呼び出しに応じ、執務室を訪った航季を、容燕は「近くへ」と手招いた。
そっと歩み寄った航季に謹厳な面持ちで告げる。
「例の計画、指揮はそなたが執れ」
航季は瞠目し、息をのんだ。
重要な役目を任されるのは光栄なことにちがいないが、同時にのしかかる重い責任に、心臓が軋むような音を立てる。
「ですが、わたしは……」
「そう己を卑下するな。そなたはいまや、蕭家の長子だ。わたしの跡を継ぐのは、そなたのほかにおらん」
容燕は航季の肩に手を置き、ことさら穏やかな笑みをたたえて言った。
「……!」
航季の瞳が揺れる。
────いつも、いつになっても、越えられなかった兄の存在。
蕭家を捨てたくせに、父親の情だけは残らずかっ攫って消えた男。
いつだって航季は、そんな兄の幻影に苦しめられてきた。
やっと、ようやく、初めて父に認められたように思えた。
兄の呪縛から開放されたような気がする。
「……はい。お任せください」
先ほどまで胸を締めつけていた重荷は、心地よい緊張感へと昇華した。
父が期待を寄せてくれるのであれば、航季は何だってするつもりである。
他人を欺くことも、罪を犯すことも、人を殺すことだって厭わない。
父の役に立てるのなら、父が目をかけてくれるのなら────兄の代わりではなく、航季自身を見てくれるのなら、両手が血に染まろうと構わなかった。



