◆第九章【ヨスケ】
――音が、少しちがう
その言葉に、ヨスケの心は小さく破壊された。
ヨスケは鵺を見た日を境に、狸囃子としてうまく演奏ができなくなっていた。
その理由は、明確に説明できなかった。しかしなにかが決定的に違ってしまったのだった。
それでもヨスケはしばらく自分を騙して過ごしていた。狸囃子として過ごしていた。
しかし、その瞬間はやってきた。
いつものように適当な人間に、祭り囃子を聞かせた夜だった。
その人間が、武藤歌衣であった。
祭り囃子を聴かせた後で、正気に戻った歌衣は「音が、少しちがう」と、ぼんやりしたままヨスケの方を指したのだった。
うまく演奏ができていないことを、ヨスケは誰よりもわかっていた。だからこそヨスケは傷つき、憤慨した。
そしてヨスケは衝動的に、歌衣を撞木《しゅもく》で打った。
翌日、楽器で人間を攻撃してしまったことを深く後悔していた。もうこの楽器で演奏はできないと、そう思った。
「おとした」
ヨスケは仲間たちにそう嘘をついて、演奏から離れることにした。自分が演奏についてなんらかの不調をきたしていることは、どうしても言いたくなかった。自分以外は今まで通りだからこそ、水を差すようなことは言えなかった。狸囃子を去ることにしたのは、それからすぐのことだった。
狸囃子を去った後で、どうして自分がこんな目に合わなければいけないのかと再び怒りがこみ上げてきた。悔しくて、悲しくて、そして怒っていた。
自分に「ちがう」といった人間にもう一度会わなければ、この怒りはおさまりそうになかった。しかし同時に、あの人間ならば自分の音を正してくれるかも知れないという期待もあった。
ヨスケはその希望にすがりたかった。
それからヨスケは鼻と勘を頼りに、その人間を探すことにした。しかしヨスケにとって人間の個々を見分けることは、それなりに難しいことであった。
ただ、人間を打ってしまった時の撞木の音と振動だけはしっかりと覚えている。
そんなことをしてはいけないと思いつつも、ヨスケは「軽くなら」と言い訳をして撞木で人間に触れていった。
人から出る音はとても不思議で、ヨスケはその音の一部もいただくことにした。これらを集めれば、自分の演奏が取り戻せるかも知れないとも思った。そして代わりに、自分の音をそこへ置いていくことにした。
そうしていくうちに、ヨスケはとうとう歌衣を見つけたのだった。
しかし見つけたとて所詮は人間で、こちらの姿を見ることさえできないようだった。ヨスケの怒りは急速にしぼんでいった。
しかし澄んだ音が鳴るその部屋は、ヨスケにとって興味深かった。同じ楽器でも鳴らす人間が変わると、違う楽器に思えるほどである。
ヨスケはしばらく、そこにいることにした。
この部屋で音を聴いていたら、違ってしまった自分も正せるように思えた。
中でもヨスケは歌衣の音を好んだ。その音は、ヨスケの荒んだ心に寄り添ってくれるように思えた。音が鳴るのが楽しくて、それに合わせて四助を鳴らそうと思った。
しかしその度に、自分の罪を思い出す。
さらには「ちがう」といわれたことが、まだ強く記憶に残っていた。四助を鳴らすのがこわかった。
そのためヨスケは腹鼓を打つようになった。
そうしている間に、いつしか歌衣はヨスケを視認するようになった。しかしやはり、ヨスケの中にあった怒りのようなものはすでに消え失せてしまっていた。
「ピアノの音が、好きなの?」
歌衣はヨスケに問うた。
ヨスケは「好きである」と、そう思った。そして肯定するべく頷いた。
「おと、した」
音がした。
傷ついたお前の音がした。それが自分の心に寄り添ってくれた。
そのことを伝えたかったが、どうにも人語は難しい。
そのためヨスケは、人間と対話をすることにした。人間の記憶には決して残らない類の対話である。
それでもヨスケは、懺悔がしたかった。
感情にまかせて撞木で打ってしまったことを、侘びたかった。
「ひどいことをいって、ごめんなさい」
ヨスケの記憶に触れると、歌衣は素直に謝罪してくれた。
「ごめん、ね」
ヨスケも、歌衣や人間らを撞木で打ったことを謝罪した。
その罰として、ヨスケは自らの四助を歌衣に差し出すことにした。この者なら自分より上手く四助を演奏してくれるようにさえ思った。
ヨスケが手を伸ばすと、歌衣もこちらに手を伸ばした。
罪の証を受け取ってもらう代わりに、ヨスケは歌衣の傷を受け取ることにした。歌衣の気持ちが軽くなることを願って、ヨスケは勝手にそれを受け取った。
狸囃子であるヨスケにとって、人間の一部を現実から切り離すことは簡単だった。
その対話は、歌衣の記憶には残らなかった。
しかし互いの傷は交換した。
それだけが事実として残った。
◆
「うあぁぁ、ごめん、なさい」
ヨスケは溢れてしまった感情を抑えることができず、泣き続けた。
「ぁぁああああああ、ゆる、して」
罪の償い方もわからないまま、許しを乞うことしかできなかった。
仲間たちはもらい泣きをしたのか、ほろほろと涙を流し始めた。それがさらに、ヨスケを悲しくさせた。
ヨスケはただいつものように、狸囃子として演奏がしたかった。しかしそれを、自ら手放してしまったことを後悔した。
「かえ、して」
ヨスケは懇願するように虚空に向かっていった。
「かえ、かえし、ます」
するとふと自分の身体が軽くなった。
無意識のうちに自分と罪を切り離してしまったことに、ヨスケはすぐに気がついた。ヨスケの側にはもくもくと、灰色の煙のようなものが現れ始めた。
気持ちが軽くなったが、嫌な予感が広がった。
この罪は自分から切り離してはいけないものだと、ヨスケは直感した。そしてこれは、この煙は、歌衣に向かうように思えた。
ヨスケが心配した通り、その煙は何かを思い出したようにゆらりと歌衣の元へ動き始めた。
「やめ、やめて、いか、いかないで!」
ヨスケは煙に向かっていった。
「やめてぇえええ! でき、る。できる、からぁああ」
ヨスケは悲痛な声を上げて、その煙を追った。
しかしヨスケを阻むように、その場にいた人間がヨスケの身体を軽々と抱きとめた。
それからその人間は中指と人差し指を立てて、なにかを詠唱した。
瞬間、辺り一帯は爆発したような光に包まれた。
その閃光は、ヨスケを静止させるには充分なものだった。
それほどに圧倒的な力だった。
「大丈夫」
ヨスケを抱きとめた人間は低い声でいった。
「もう大丈夫だ」
人間はそういって、ヨスケの身体を撫でた。
閃光を放った指先とは思えぬほどに、ヨスケを優しく撫でてくれた。
ヨスケは人間の腕の中で、煙が消えていることを確認した。
そういえばネノシマから鵺退治に派遣された見鬼がいるらしいと、耳にしたように思う。この人間がそうであると、ヨスケは理解した。
この圧倒的な力があれば、今後鵺に生活を脅かされることもないだろう。
「よくやった。君はとても勇敢だった」
人間は慰めるようにいった。
ヨスケの胸は再び痛み始めた。
「うぁぁぁあああ、ごめん、なさい」
ヨスケはまたしばらく泣き続けた。
――音が、少しちがう
その言葉に、ヨスケの心は小さく破壊された。
ヨスケは鵺を見た日を境に、狸囃子としてうまく演奏ができなくなっていた。
その理由は、明確に説明できなかった。しかしなにかが決定的に違ってしまったのだった。
それでもヨスケはしばらく自分を騙して過ごしていた。狸囃子として過ごしていた。
しかし、その瞬間はやってきた。
いつものように適当な人間に、祭り囃子を聞かせた夜だった。
その人間が、武藤歌衣であった。
祭り囃子を聴かせた後で、正気に戻った歌衣は「音が、少しちがう」と、ぼんやりしたままヨスケの方を指したのだった。
うまく演奏ができていないことを、ヨスケは誰よりもわかっていた。だからこそヨスケは傷つき、憤慨した。
そしてヨスケは衝動的に、歌衣を撞木《しゅもく》で打った。
翌日、楽器で人間を攻撃してしまったことを深く後悔していた。もうこの楽器で演奏はできないと、そう思った。
「おとした」
ヨスケは仲間たちにそう嘘をついて、演奏から離れることにした。自分が演奏についてなんらかの不調をきたしていることは、どうしても言いたくなかった。自分以外は今まで通りだからこそ、水を差すようなことは言えなかった。狸囃子を去ることにしたのは、それからすぐのことだった。
狸囃子を去った後で、どうして自分がこんな目に合わなければいけないのかと再び怒りがこみ上げてきた。悔しくて、悲しくて、そして怒っていた。
自分に「ちがう」といった人間にもう一度会わなければ、この怒りはおさまりそうになかった。しかし同時に、あの人間ならば自分の音を正してくれるかも知れないという期待もあった。
ヨスケはその希望にすがりたかった。
それからヨスケは鼻と勘を頼りに、その人間を探すことにした。しかしヨスケにとって人間の個々を見分けることは、それなりに難しいことであった。
ただ、人間を打ってしまった時の撞木の音と振動だけはしっかりと覚えている。
そんなことをしてはいけないと思いつつも、ヨスケは「軽くなら」と言い訳をして撞木で人間に触れていった。
人から出る音はとても不思議で、ヨスケはその音の一部もいただくことにした。これらを集めれば、自分の演奏が取り戻せるかも知れないとも思った。そして代わりに、自分の音をそこへ置いていくことにした。
そうしていくうちに、ヨスケはとうとう歌衣を見つけたのだった。
しかし見つけたとて所詮は人間で、こちらの姿を見ることさえできないようだった。ヨスケの怒りは急速にしぼんでいった。
しかし澄んだ音が鳴るその部屋は、ヨスケにとって興味深かった。同じ楽器でも鳴らす人間が変わると、違う楽器に思えるほどである。
ヨスケはしばらく、そこにいることにした。
この部屋で音を聴いていたら、違ってしまった自分も正せるように思えた。
中でもヨスケは歌衣の音を好んだ。その音は、ヨスケの荒んだ心に寄り添ってくれるように思えた。音が鳴るのが楽しくて、それに合わせて四助を鳴らそうと思った。
しかしその度に、自分の罪を思い出す。
さらには「ちがう」といわれたことが、まだ強く記憶に残っていた。四助を鳴らすのがこわかった。
そのためヨスケは腹鼓を打つようになった。
そうしている間に、いつしか歌衣はヨスケを視認するようになった。しかしやはり、ヨスケの中にあった怒りのようなものはすでに消え失せてしまっていた。
「ピアノの音が、好きなの?」
歌衣はヨスケに問うた。
ヨスケは「好きである」と、そう思った。そして肯定するべく頷いた。
「おと、した」
音がした。
傷ついたお前の音がした。それが自分の心に寄り添ってくれた。
そのことを伝えたかったが、どうにも人語は難しい。
そのためヨスケは、人間と対話をすることにした。人間の記憶には決して残らない類の対話である。
それでもヨスケは、懺悔がしたかった。
感情にまかせて撞木で打ってしまったことを、侘びたかった。
「ひどいことをいって、ごめんなさい」
ヨスケの記憶に触れると、歌衣は素直に謝罪してくれた。
「ごめん、ね」
ヨスケも、歌衣や人間らを撞木で打ったことを謝罪した。
その罰として、ヨスケは自らの四助を歌衣に差し出すことにした。この者なら自分より上手く四助を演奏してくれるようにさえ思った。
ヨスケが手を伸ばすと、歌衣もこちらに手を伸ばした。
罪の証を受け取ってもらう代わりに、ヨスケは歌衣の傷を受け取ることにした。歌衣の気持ちが軽くなることを願って、ヨスケは勝手にそれを受け取った。
狸囃子であるヨスケにとって、人間の一部を現実から切り離すことは簡単だった。
その対話は、歌衣の記憶には残らなかった。
しかし互いの傷は交換した。
それだけが事実として残った。
◆
「うあぁぁ、ごめん、なさい」
ヨスケは溢れてしまった感情を抑えることができず、泣き続けた。
「ぁぁああああああ、ゆる、して」
罪の償い方もわからないまま、許しを乞うことしかできなかった。
仲間たちはもらい泣きをしたのか、ほろほろと涙を流し始めた。それがさらに、ヨスケを悲しくさせた。
ヨスケはただいつものように、狸囃子として演奏がしたかった。しかしそれを、自ら手放してしまったことを後悔した。
「かえ、して」
ヨスケは懇願するように虚空に向かっていった。
「かえ、かえし、ます」
するとふと自分の身体が軽くなった。
無意識のうちに自分と罪を切り離してしまったことに、ヨスケはすぐに気がついた。ヨスケの側にはもくもくと、灰色の煙のようなものが現れ始めた。
気持ちが軽くなったが、嫌な予感が広がった。
この罪は自分から切り離してはいけないものだと、ヨスケは直感した。そしてこれは、この煙は、歌衣に向かうように思えた。
ヨスケが心配した通り、その煙は何かを思い出したようにゆらりと歌衣の元へ動き始めた。
「やめ、やめて、いか、いかないで!」
ヨスケは煙に向かっていった。
「やめてぇえええ! でき、る。できる、からぁああ」
ヨスケは悲痛な声を上げて、その煙を追った。
しかしヨスケを阻むように、その場にいた人間がヨスケの身体を軽々と抱きとめた。
それからその人間は中指と人差し指を立てて、なにかを詠唱した。
瞬間、辺り一帯は爆発したような光に包まれた。
その閃光は、ヨスケを静止させるには充分なものだった。
それほどに圧倒的な力だった。
「大丈夫」
ヨスケを抱きとめた人間は低い声でいった。
「もう大丈夫だ」
人間はそういって、ヨスケの身体を撫でた。
閃光を放った指先とは思えぬほどに、ヨスケを優しく撫でてくれた。
ヨスケは人間の腕の中で、煙が消えていることを確認した。
そういえばネノシマから鵺退治に派遣された見鬼がいるらしいと、耳にしたように思う。この人間がそうであると、ヨスケは理解した。
この圧倒的な力があれば、今後鵺に生活を脅かされることもないだろう。
「よくやった。君はとても勇敢だった」
人間は慰めるようにいった。
ヨスケの胸は再び痛み始めた。
「うぁぁぁあああ、ごめん、なさい」
ヨスケはまたしばらく泣き続けた。

