彼女たちのエチュード

◆第十一章【求める場所】歌衣

 雲岩寺の僧侶が帰ったと聞いて、歌衣はすぐにピアノ部屋に向かった。
 案の定、そこにヨスケはいなかった。
 その事実にほっとすると同時に、さみしい気持ちもあった。

 その夜、眠りの中にいると、祭り囃子が聞こえてきた。
 歌衣は誘われるように窓際に向かった。そこには、ヨスケと仲間らしきタヌキたちがいた。
「ごめ、んね」
 ヨスケはいった。
 そして握手を求めるように手を伸ばした。歌衣はそれを受け入れ、ヨスケの手に触れた。
 そうするうちに、こうしてヨスケに触れたのは初めてではないことを思い出した。
 目の前にいるヨスケは、歌衣の傷を返しに、そして歌衣が受け取った四助を返してもらいに来たのだと理解した。

「傷つけてごめんね。できないことを指摘されるのは、なにより辛いことなのに」
 歌衣は再び謝罪した。
「そんなことより、ここは楽しかった。腹鼓を打つほどには楽しかった。音が楽しいことを、お前は思い出させてくれた」
 ヨスケに触れているせいかなのか、錯覚なのか、ヨスケはそういって笑ってくれた。
「四助を返してくれてありがとう。自分の罪は重くても、背負わなければならない。利用して悪かった!」
 ヨスケはそういうと、歌衣から離れて手を振った。
 歌衣も手を振ると、ヨスケは祭り囃子の音とともに消えていった。

 歌衣にはついぞ見えなかったが、ヨスケの大切な楽器は無事に返せたようである。
 どこかぼんやりとしたまま、歌衣はベッドへ戻った。
 ヨスケが去ったことが悲しくて、そして持て余していた感情が戻ってきて、歌衣はベッドの中できつく目を閉じた。



 ヨスケが受け取ってくれた傷は、きっと大した傷ではなかった。

 ヨスケを傷つけてしまった日のことを、歌衣は覚えている。
 その日はまだ夏休みになる前であった。
 歌衣は塾の帰り、母の迎えを待っていた。
 いつものように携帯端末をみて時間を潰していたが、ふと視線を上げると向かいの歩道に同年くらいの男女がいた。そしてほどなく、それは波浪と朔馬であると気が付いた。
 どうして二人が一緒にいるか疑問に思った。しかし凪砂と朔馬が学校外で遊んでいる場合、二人が顔見知りになっても不思議ではないように思った。
 そんなことを考えていると、自分の体温が急激に下がっていくのが感じられた。七月にも関わらず、指先は凍えるほどには冷たくなった。
 二人の関係がどうであれ、歌衣はひどく動揺していた。

――遅くて、いつも迷惑かけて
――そんな風に思ったことないよ
 その言葉は「遅くて」に対してなのか、「迷惑」に対してなのか、わからない。
 しかしそれは今も、歌衣にとって宝物のような言葉だった。
 きっとその時から、歌衣の目には波浪が特別に映っていた。
足の速い彼女に対して、生物的ななにかが反応しているとしても、歌衣は波浪を好ましく思っていた。波浪が目の届く場所にいると、意識がいつもそちらに向いた。親に頼んで、彼女と同じスニーカーを買ってもらったこともある。
 頭の天辺から爪先まですべて思い通りに動かせると感じさせるような彼女の所作も、姿勢の良さも、顔立ちも、髪質も、さっぱりとした性格も、すべてがいいなと思った。
 しかしそうは思っていても、たくさん話しかけたいとか、一緒に出掛けたいとか、そんなことは思わなかった。その程度の好意だった。放っておけば消えていくような、そんな幼い感情だと思っていた。

 だからこそ、こんなにも動揺している自分に驚いた。
 こんな日がくることを、容易に想像できたはずである。
 しかし近い未来には訪れないだろうと、その頃には自分の感情も薄れているだろうと、そう思い込んでいた。
 波浪を語る中で、凪砂と毅の存在は大きい。その二人はおのずと波浪を護る双璧として、君臨し続けるのだろうと思っていた。しかしそれは、三人が中学という閉鎖された世界に生きていたからに他ならない。
 波浪は歌衣の知らない場所で、知らない人になっていく。
 そんな当たり前のことに気づくと、涙が出そうなほど悲しかった。

 ふと気がつくと、祭り囃子が鳴っていた。
 辺りを見渡すと、自分が母との待ち合わせの場所から微妙に移動していることに気がついた。ほんの数秒、意識が飛んでいたようである。
 歌衣はぼうっとした頭のまま、祭り囃子が鳴る方を見つめた。
 そこにはなにもない。しかしなにが音を奏でている。
 歌衣は音のする方を指した。
「音が、少しちがう」
 歌衣はそう呟いた。

 その日から、ずっとそわそわしていた。
 朔馬が伊咲家に居候していると聞いた後も、歌衣の気持ちが安らかになるわけではなかった。
 波浪はいずれ、自分以外の誰かの特別な存在になるのだと、そう悟ってしまったせいだった。彼女とどうなりたいと思っているわけでもない。しかしその「誰か」を見てしまった時は、きっと激しく嫉妬するのだろうと思う。自分がそうなりたかったと、いつものように思うのだろう。
 この感情に向かうべき場所などなく、歌衣はそれをひどく持て余していた。

 しかしヨスケを目視した日、つまりは歌衣の何かをヨスケが引き受けてくれた日から数日は、穏やかな気持ちでいられた。
 波浪をコンビニで見かけた朝、本来の自分であれば彼女に話しかけることはなかったかも知れない。
 ピアノ部屋で気負わずに談笑できたことも、歌衣にとってはきっと何年も思い出す出来事になるだろう。

 それらは、ヨスケと出会わなければありえなかった僥倖である。
 本来の自分のまま、彼女の前でピアノを弾いてみたかったとも思うが、それは醒めた夢の話である。



 学校の帰り、再び毅と同じ電車になった。
 明日も朝練がないのかと問うと、毅は首を振った。
「家に忘れ物した。回収したら、すぐ戻る」
「今日中に、寮に帰るってこと?」
「そう。うちからだと朝練間に合わないから。夕飯食べたら、終電で帰る」
 毅はそういって、ふわっとアクビをした。
 彼は今日も伊咲家に遊びにいくのだろうか。

 ヨスケが問題なくピアノ部屋から去った(歌衣にはそう思われた)ことを波浪に連絡すると、よかったねと返信がきた。お礼になにかしたいと思えど、辞退されそうな気がして、そこで連絡が途絶える気がして、歌衣はまだ返事ができていない。
 もしかしたらあれこれ考えているうちに、返信をする機会を失うかも知れないとも思っている。しかしこれが本来の、自分と彼女の距離感である。

「伊咲さんは、足が速いよね」
 歌衣は唐突にいった。
 しかし毅は気にした様子はなく「馬鹿みたいに速いな」といった。
「どうしてあんなに速いんだろう」
 そんなことを口にした後で、凪砂も足が速いので、生まれ持った才能みたいなものなのかも知れないと歌衣は思った。
「走ってるからじゃない?」
 毅は当然のようにいった。
「え、体育以外で?」
 日常で走るという行為をしないので、歌衣は思わず聞いた。
毅は「うん」と即答した。
「走ると、足が速くなるの?」
「そういうもんだよ」
 なんだか目から鱗が落ちたような気持ちであった。体を使うことが苦手で、それを克服できるとは思い至らなかったからである。
「いつの夏休みだったか、双子と毎朝浜辺を走るようになったんだよ。凪砂はその頃からサボってたけど、ハロは今も毎朝走ってるよ」
「毎朝?」
 歌衣がいうと、毅は「毎朝」と頷いた。
 毎朝ということは、おそらく学校にいく前に走るのだろう。どれほど走っているのかは分からないが、自分が同じことをしたら学校にいく気力も体力も奪われるだろう。
「なんでそんなに走れるんだろう。部活に入ってるわけでもないのに」
「楽しいからでしょ」
 毅はあっさりいった。
 走るのが楽しいというのは、歌衣にとってわからない感覚であった。
「武藤ちゃんがピアノ弾いてるのと、同じ感覚だと思うよ」
 歌衣の真意を察したのか、毅はいった。
「楽しいから、続けてるんでしょ」

楽しいからとくり返すことに、意味を求めるようになったのはいつからだっただろう。
何かをすることに、理由が必要であると思い込み始めたのは、どうしてだっただろう。
考えても明確な答えは見つからなかった。

「うん、楽しいから続けてる」
 歌衣はぽつりといった。
求める場所もないままに、ただピアノを弾き続けていても、正体不明の感情を抱き続けていても、誰に咎められるわけでもないのかも知れない。
 そう思うと、ふと肩の力が抜けたように思った。

「次の動画さ、あれ弾いてよ」
 毅はそういうと、歌衣が聞いたことのない曲名を告げた。
 調べてみると、波浪がリクエストしたアーティストの曲であった。
 波浪からリクエストされた曲を淀みなく弾けた時、自分の感情の一部は間違いなく報われた。

――見たことのない場所に連れていって、その反応を楽しむ妖怪
 波浪は狸囃子をそう説明した。
 あの日の歌衣をヨスケが楽しんでくれていたのなら、それでいいように思えた。

 努力ともいえないなにかを積み重ねて日々を過ごしていくうちに、思いもよらぬ場所にたどり着くこともあるのかもしれない。

 今宵もきっとどこかで、祭り囃子が鳴っている。





【 了 】