数多の夏闇と一夜

第十三章 【この先】 波浪

 夢だ。
 朔馬の見る、尾裂の夢だ。

――もう嫌じゃ! 解放してくれ!
 居場所を求めたはずの尾裂が、それを放棄するほどの孤独を、私は想像することができない。
 尾裂は誰かと寄り添いながら、いつもひとりだった。
 それは尾裂が憑いた誰かも、同じことだった。
 それでも尾裂と男の契約は、なにかを苦しめるためのものではなかった。
 ただ、瑠璃丸(るりまる)の時と同様に、それは呪いとなって現在に残り続けたのだった。



「狐子さんは苦労したんだろうな」
 凪砂は寝ぼけた顔でいった。
 昨夜、私と朔馬が帰宅した時には、凪砂はすでに眠っていた。しかし凪砂は今朝も、起床は一番遅かった。
「いじめはなかったけど、色んな人に嫌われてたって」
「そんな話までしてたんだ?」
「あ、こんな話他の人にしない方がよかったかな」
「知らないふりするよ。ね」
 凪砂が朔馬をみると、彼はうなずいた。
「休み時間なにしてるって聞かれて、そんな話になった」
「休み時間か。高校では勉強しかしてないよな?」
 凪砂は再び朔馬をみた。
「俺の好きな食べ物を当てるゲームしてくれた」
「ああ、あったな。あれも、単語帳みながらだったけど。朔馬の好きな食べ物、なにかわかる?」
「さっぱり系のアイス」
「ハズレ」
「あ、それも好きだよ」
「じゃあ正解。でも学校の話って、案外答えるのむずかしいよな」
「毅のことムカついてたって話ばっかりしちゃった気がする」
 凪砂は短く笑った。
「それ、幼稚園とか小学校とかの話だろ?」
「そうなんだけど。あの頃の毅って、強烈だったから」
「それは、そうだな」
 凪砂はなにかを思い出したように深く同意した。
「三人は、昔から仲良かったんじゃないの?」
 朔馬は不思議そうにいった。
「昔から仲はいいけど、腹立つことも数えきれないくらいあったよ。毅は絵に描いたようなガキ大将だったから」
 凪砂も私も、色んな事を思い出し、うんざりした表情になった。
 ゲーム中に暴言を吐かれ、何度ソファーに突っ伏したか分からない。その度に毅は謝ってくれたが、翌日には同じことをされる日々であった。
「そうなんだ? あんまり想像つかないな。毅、いつも優しいから」
 私と凪砂は無表情に顔を見合わせた。
「朔馬がそう思ってくれるなら、あの頃の俺たちも浮かばれる気がする」
 私は深くうなずいた。
「そういえば尾裂は? 今はどうなったの?」
「野生に戻ったかな、拘束はしなかったから、起きたら勝手に出ていったんだと思う」
「また誰かに憑くのかな?」
「解放してくれっていってたし、日本には見鬼も少ないし、その可能性は低いと思う」
「じゃあ今後は自由に生きるんだ?」
「そうだね。まだ子どもだったし、どこかで元気にやってくれたらいいけど」
 あの女の子がこの世界を一人で生きていくと思うと、なんとも言えない気持ちになる。
「それとは別件なんだけど、今夜幡兎神社にいってくるよ」
「今夜? 昼間じゃなくて?」
「うん、妖狐と話がしたいから」
「じゃあ今回は俺がついていくよ。兎国神にも会いたいし」



「寝てるね。何度目だろう、これ」
 夕食後、凪砂はソファーで寝息を立てていた。
 夕飯前に走ることをサボらないのはえらいと思うが、まだ身体が慣れていないようである。
 例の如く、幡兎神社へは私がついていくことにした。

 幡兎神社には、妖狐が顕現していた。
 初めて妖狐をみた時のように、幡兎神社の社殿を守るようにして丸くなっている。
「なんだ? 夜にくるとは、もの好きだな」
「夜の方が話しやすいだろ? お前はこうして、依代から出られるわけだしな」
 朔馬の口調は、いつもより温度が低いように思えた。
「兎国神は? いないのか?」
 いつも真っ先に挨拶してくれるが、今夜はその姿がなかったので私も気になっていた
「兎国神は今、眠っておられる」
「兎国神とは、うまくやっているんだな。神が眠れるのはいいことだ」
 朔馬はそういうと妖狐をじっと見た。
「お前がいった通り、尾裂をつれて雲岩寺ふもとの稲荷社にいってみたよ」
「ほぅ」
「なにかわかることがあるかもしれないと、お前はいったな?」
「いった。なにかわかったか」
「あの稲荷社に、鵺がひそんでいることはわかったよ」
 私は思わず「え?」という顔で朔馬を見た。
 昨夜私は、あの稲荷社に魔除けの呪陣を書いておいてほしいと朔馬に頼まれていた。契約の解除の際に、邪魔が入っては面倒だからという理由だった。
 しかし私の呪陣は、思うようには発動しなかった。
「やはりそうか、あの稲荷社に近づいた時、そんな気配がした」
「だからお前は、あの稲荷社にはいけなかったんだな」
「そういうことだ。おそらく神域に入り込んでしまった、弱った鵺だろうな」
 それが事実なら、すでに呪陣の中に異物が入り込んでいたことになる。私の呪陣が思うように発動せずとも納得であった。
「あの稲荷社につれていった尾裂は、それはもう元気だったよ」
 朔馬はため息を吐いた。
 契約を解除した際に、妖狐ほどに大きくなった尾裂の姿を思い出す。
「それは、痛快なことだ」
 妖狐は満足そうにいった。
「で? なんの用だ? 鵺のことを黙っていたのを咎めにきたのか? いっておくが、知っていたわけではないぞ。その可能性は高いと思っていたがな」
「咎める理由もない。ただ、今後故意に鵺の情報を黙っていたら、害妖認定すると伝えにきた。お前のせいではないが、二人の人間が危ない目にあった」
 朔馬のいう二人とは、おそらく私と狐子さんのことだろう。
 妖狐は舌打ちをした。
「人間とは本当に勝手なものだ」
「自覚はあるよ」
「だからたちが悪い」
「鵺に関して、隠してることはもうないか?」
「今のところない。で、その鵺はどうしたんだ?」

「すでに捕らえた。宇月山の鵺に関しては、まだだけどな」
 いつ鵺を捕らえたのかはわからないが、おそらく本日の明るい時間だろうと予想はできた。
「宇月山の鵺を捕らえたら、ここに報告しにくるか?」
「お前が望むなら、そうしてやってもいい」
 朔馬がいうと、妖狐は無言で目を閉じた。
もう話す気はないようである。
 朔馬と顔を合わせて「帰ろうか」と意志の確認をした。
 幡兎神社を去る前に、私は持ってきたお米を社殿に置いた。すると妖狐は目を閉じたまま「これくらいは渡してやろう。お前たちからと伝えておく」といった。
 私たちはお礼をいったが、妖狐はなにもいわなかった。
 仲直りなんて、いつもこんなものである。
 どうでもいい意地悪をされたり、なんとなく許したりして、気付くと親しくなってしまう。それは人間だけではないのかもしれない。

 幡兎神社を出ると「鬼虚が減ってる」と朔馬がいった。
 いわれてみれば、夜になると浮遊していた鬼虚がずいぶん減っているように思えた。
 妖狐が食べてくれているのだろうと、私たちは同時に理解した。
 鬼虚に困らされていた兎国神にとって、それはとてもありがたいことに違いなかった。
「一方的に怒って悪かったかな」
 怒っていたのか、と思ったが口にはしなかった。
「ハロは怒ってる?」
「なにを?」
「尾裂とか、妖狐に対して」
 私は首を振った。
 私にとってそれらは、怒る対象ではないように思えた。
 朔馬は安心したように息を吐いた。
「怒ってないって」


 朔馬は後方に向かって声をかけた。
 目を凝らすと、歩道脇の草むらに尾裂が隠れていた。
「いつから?」
「俺たちが家を出て、少し経ったくらいかな」
「着いてきてたの?」
「うん。そうでなくても、そのうち茶室を訪ねてきたんじゃないかな。尾裂も鵺に影響を受けた妖怪だから、困ることもあるだろうし」
 朔馬が「おいで」というと、尾裂はじっと私をみつめた。私も「おいで」といってみた。
 しかし尾裂はその場を動かず、まだ警戒している様子だった。
「契約はできないが、お前が生きやすい場所を探してみよう」
 朔馬は尾裂にいった。
 生暖かい闇の中で、街路灯がまぶしいほどに光っている。昼に置き去りにされたようなそれらは、進むべき道を照らすようにどこまでも連なっている。

 私たちが歩き始めると、尾裂は慌てたように距離をつめた。
 帰路を歩く私たちに、いつまでも軽い足音がついてきた。



【 了 】