数多の夏闇と一夜

第十章 【頭がいい】 波浪

 その女の子は、一度も話そうとはしなかった。

「関係者入口を使えば車で山門の向こうまでいけるんだけど、理玄さんに聞いてみましょうか?」
 車に乗る以外はかたくなに狐子さんから離れなかった女の子は、なぜかするりと私に近づき手を握った。
そして私になにかを訴えるように首を振った。
 階段を上るのが嫌なのかもしれなかったが、狐子さんを遠ざけるようにしっしと手を振った。理由はわからないが、ぐずっているようである。
 しかし狐子さんは、それを気にする様子はなかった。こうした行動をするのに慣れているのかもしれない。
「私もう少し、ここにいます。あとですぐに追いつきます」
 私は女の子を見つめたままいった。
 狐子さんは「じゃあ、先にいってるね」と確認するようにいった。私は「はい」とうなずいた。
 山門へいく狐子さんの背中をしばらく見ていたが、手を強く握られた気がして女の子に目を向けた。狐面をしているせいか、その表情は相変わらずよくわからない。
 こつん。
 なにかが落ちた音が鼓膜を揺らす。それが合図だったように、握っていた女の子の手が、獣のそれに変わっていった。
 鼓膜を揺らしたのは、女の子のつけていた狐面が落ちた音だったと気付く。足元に落ちた狐面が割れると、それは跡形もなく消えていった。
「お前じゃな? 呪いを返してきたのは、お前じゃな」
――理玄と知り合いなら人外ってことはないんだろ
 疑う要素は、きっといくつもあった。
 でもその可能性から、無意識に目を背けていた。
 私の目の前には、先ほどまでいた女の子でなく、尾の裂けた白いキツネがいた。
「尾裂?」
 白いキツネは繋いでいた手を振り払って、私から距離を取った。
「その名で呼ばれるのは、久しぶりじゃ」
 おそらく肯定の言葉である。
 尾裂は警戒するように私を睨んだ。明らかに敵意のある目である。
 攻撃されては面倒なので、指先だけを動かして太ももあたりに身を守る呪陣をズボンの上から書いた。
 瞬間、パシャリと目の前で、シャボン玉が弾けたような感触があった。
 攻撃された。
そう理解する。
 唖然とする私を見て、尾裂は愉快そうに笑った。比例するように尾裂の姿はだんだんと大きくなっていく。
 その笑い声を聞いている間、ふっつりと理性が失われる感覚があった。
「ほぅ。そんな目もできるのじゃな」
 親指と中指で輪を作り、攻撃の呪陣を飛ばすと、尾裂は嫌がる表情を見せた。しかしあまり手応えはない。この系統の呪陣はあまり効果がないらしい。
 尾裂は不機嫌な顔をそのままに、襲いかかってきた。その動きが、おそろしくはっきり見えた。転ぶ前に世界が遅くなる瞬間によく似ている。
 尾裂の攻撃を避けた動きを止めないまま、私は尾裂の前脚を掴み、こちらに引き寄せた。引き寄せた尾裂の顔を、もう一方の手で地面に押しつけようとしたが、すんでのところで手を振りほどかれ、避けられた。
 手を振りほどかれた際に、前脚をつかんでいた左手は傷つけられた。
 身を守る呪陣を服の上からかいていても、地面に書いた時ほどの効果はないようである。建辰坊から呪術を教わる際に、呪陣は地面か紙に書くと一番効果を発揮するといっていた。おそらく目に見えるカタチにしておいた方が、いいのだろう。
 私の手から逃れた尾裂は、背を向けてどこかへ去っていった。
 傷つけられた左手がじんじん痛む。大したケガではないが、おそらく普通の傷ではないだろう。
 まだ遠くにはいっていないはずの尾裂を探すべく、私は辺りを見渡した。すると山門から朔馬の姿がみえた。
 朔馬の姿をみて、私はおそらくほっとした。
 背後でなにかが動く気配があった。
 予感はあった。
 尾裂は追撃してくるだろうという、強い確信があった。
 私は振り向きながら体を傾けて、自分の肩越しに尾裂の姿を確認した。敵意のある尾裂がこちらに向かってきても驚きはなかった。先に振り返った上半身の勢いをそのままに、蹴りを放った。私の蹴りは、尾裂にしっかりと当たった。呪陣を放った時以上の手応えがあった。
 牛ほどの大きさになっていた尾裂は、私の足元に倒れた。それとほぼ同時に、尾裂のすぐ頭上を物凄い勢いで何かが通りすぎていった。
「すごいな。背後からきた尾裂をよく蹴れたね」
 朔馬はそういいながら、こちらに駆け寄ってきた。
 尾裂の頭上を通り過ぎていったものは、朔馬の術か肢刀だったのだろう。
倒れた尾裂は、柴犬ほどの大きさになっていた。朔馬はそんな尾裂を、手際よく拘束した。
「妖怪に物理攻撃って有効なんだね」
「一概にはいえないけどね。でもさっきの蹴りは、もろに入ったみたいだね」
「私自身に呪陣を書いたせいかな」
「そうかもね。さっきのって、後ろ回し蹴り?」
 朔馬は目の前の尾裂よりも、私が蹴りをくり出したことに興味があるようだった。
「朔馬がいうなら、たぶんそれかな。私はサッカーも、空手も、よくやらされてたから」
 私は言い訳するようにいった。
「習ってたの?」
「空手は、毅が習ってた。サッカーは遊びで」
 手のひらを的にして、左右の蹴りを何度練習したかわからない。そのおかげか、私は軸足でなくても蹴りを出すことができる。
「でも実戦するのは初めてだろ?」
「ボール以外をしっかり蹴るのは初めて」
 しかし私を攻撃してくる尾裂は、毅からのクロスよりも正確で蹴りやすかった。いずれにせよ来るだろうと思っていたから、蹴れただけである。
私は頭の隅で、尾裂に強い敵意を向けていた。
 朔馬に拘束された尾裂をみて、狐子さんによくない影響があったら嫌だなと今更思った。私は少しずつ冷静さを取り戻していた。
 朔馬を呼ぶ声に山門を振り返ると、理玄と狐子さんがこちらに向かってきた。



「その白いキツネが、狐面をした女の子に見えてたってことでいいんだな?」
 気を失っている尾裂の姿は、理玄にも狐子さんにも見えるようだった。
 理玄の問いに、私たちは「そうです」と答えた。
「狐面をした女の子ね。多様性の時代といえど、変わった格好といいたくなるな」
「理玄は今まで、狐子を女の子っていってたんだ?」
 朔馬は気を失った尾裂を抱えたまま、狐子さんを見つめた。
 妖怪関連になると、人間にも敬称や敬語を使わなくなるようである。
「俺にとっては、女の子だからな」
「でも理玄はハロのこと、お姉ちゃんっていってただろ?」
「それは凪砂の姉ちゃんって意味だよ!」
「それについては、よくあるので気にしてませんでした。今後も気にしません」
 私はいった。
 狐子さんが声をかけてくれた時。もしくは車に乗っている時。女の子に話しかけてみればよかったのだろうか。しかし何度思い返しても、私は結局女の子に話しかけることはなかっただろう。
 尾裂はいつも、狐子さんにしがみつくようにして、こちらを睨んでいた。体調の悪さもあいまって、人見知りしている子にわざわざ話しかける気は起きなかったのが本音である。
狐子さんも女の子を気にする様子がなかったので、いつもこんな感じなのだろうと思い込んだのだった。
「しかし、そうか。こういうこともあるんだな」
 理玄は反省するように呟いた。
「憑き物っていうのは、憑いてる者に影響を受けるんだ。人間の姿をしていても、不思議じゃない。俺も、もっと注意するべきだった」
「憑き物、ですか?」
 狐子さんがいった。
「自分の血筋が狐持ちとか、狐憑きの家系だって聞いたことある?」
 朔馬はいった。
「キツネはうち守り神だとか、そんなことは祖母にいわれたような気はしますけど、それくらいです」
 困惑している狐子さんに、理玄は尾裂の説明をした。
 狐子さんは思い当たることが多かったらしく「そうだったんですね」と受け入れていた。
「契約の解除をしたいなら手伝うよ」
 朔馬がそういっても、狐子さんはまだ戸惑っている様子であった。当然の反応である。
「狐子の祖先がどんな契約をしたかわからないけど、たぶん難しいことはしてないと思う。尾裂は子どもの姿だったし」
 無言の狐子さんに、朔馬はつけ加えた。
「尾裂が子どもの姿だと、なにかあんの?」
 理玄はいった。
「人外が人間に化けた時の姿は、精神年齢と同じくらいといわれてるんだ。だから複雑な契約はしてないと思う。どうする?」
 狐子さんは気を失っている尾裂を見つめるだけであった。
「今すぐに、結論を出さなくてもいいんだろ? 狐子も考えたいこともあるだろうしな」
 理玄はいった。
「うん、いつでもいいよ。でも尾裂は今、鵺の影響でいつもより凶暴になってることは伝えておく。なにかあれば、すぐに呼んでくれて構わないから」
「え、鵺も関係してんの? その話、ここでしていいの」
「しない方がよかったかもしれない」
「だよな」
「尾裂は一旦、雲岩寺の鎮守社に預けてもいいかな?」
「それは構わないけど、狐子と尾裂が離れてなにかあったりしないのか?」
「それは大丈夫。尾裂は目覚めたら、勝手に狐子の元へ戻ってくるから」
 朔馬がいうと、狐子さんは「お願いしてもいいですか」といった。
 尾裂との契約を解除してほしいと、彼女はいった。

◆◆

 雲岩寺から帰ると、私は夕食に起こされるまで眠っていた。
 体調はすっかり元に戻っていたが、尾裂につけられた傷はまだ残っている。放っておいてもそのうち治るらしいが、朔馬は治療を申し出てくれた。
「狐面の子、理玄にも見えてると思い込んでたな」
 凪砂はいった。
 私と朔馬はそれぞれ「俺も」「私も」と同意した。
「理玄って何歳まで、あの子っていうんだろ? あの人、大学生くらい?」
「狐子は大学院生なんだって」
「そうなんだ? 見かけによらずって感じだな。でもさ、会話の中で狐面の話しなかった?」
「狐子は狐面の描かれた持ち物を、わりと多く持ってるらしいよ。だから変に会話が成立してたんだろうな」
「で、また夜中に雲岩寺にいくんだっけ?」
「そうすることにした。尾裂は夜中には目を覚ますと思うし、凶暴になってる尾裂との契約解除は早い方がいいと思って。それに妖狐にいわれたことも、少し気になる」
「なにかいわれたの?」
「尾裂をつれて、雲岩寺のふもとの稲荷社にいってみるといいっていわれたんだ。そういえば狸丸がいたから、夜は鳥居で雲岩寺にいくことにしたよ」
「狸丸がいると、移動が助かるな」
「そうだね。でも妖怪とはあんまり約束しないようにしてるんだ」
 朔馬はそういいながら私の手の傷に、見慣れぬ色の液体を垂らした。傷からは、もわもわと煙のようなものが出てきた。
「うわ、なにこれ!」
「毒気みたいなものを抜いてるんだ。痛くない?」
 とんでもなく痛かったが、私は両目を閉じてうなずいた。
「何度もいったけど、後ろからきた尾裂をよく蹴れたね」
 よほど感心しているらしい。
「いいか? 俺たちは大変頭がいい」
 私はいった。
すると凪砂は「あー、毅か」と、すぐに反応した。
「なんの前触れもなく攻撃された時は、逃げるか撃退することだけ考えろって毅がいってた」
「俺も覚えてる」
「尾裂は絶対にまた襲ってくると思ったから、撃退することだけ考えてた気がする」
「毅とばあちゃんの言葉って、だいぶ俺たちに影響を与えてるよな。毅の場合は、適当なこともいうんだけどさ」
 毅は私たちに強くなにかを伝えたい時「いいか? 俺たちは大変頭がいい」とはじめるのだった。
 その口癖は、彼の祖母の口癖でもあった。
 彼女からその言葉がでる度に、私たちは大変頭のいい子どもなのだと思い込んだものである。

 いいか? 俺たちは大変頭がいい。
 でも頭を使っていけない時がある。
 なんの前触れもなく、ただ攻撃された時だ。
 その時は、逃げるか撃退することだけ考えろ。
 それ以外に頭を使ってはいけない。

 朔馬がもう一滴、謎の液体を垂らしたが、今度はそれほど痛くなかった。
「これでもう大丈夫だよ」
 朔馬は満足そうにいった。
 尾裂が背後から襲いかかってくる時、私の攻撃が当たらなくても、おそらく朔馬によって私の安全は守られていただろう。
 あの時、本当は逃げるべきだったのかも知れない。しかし直前に朔馬の姿をみていたことで、私は無意識に彼を頼りにしていたのかも知れない。
 きれいになった手を見つめ、深く自省した。