「――茜。茜」
「ん……」

 名前を呼ばれて茜は目を覚ました。うっすらと瞼を開けると、正面には端正な桐生の顔があった。気が付けば――茜は桐生にのしかかられていた。その事実に気づいて茜は目を見開く。

「朝だよ。もうすぐ食事の時間だ」
「! 退いて!」
「おはよ」

 桐生はもがいた茜の唇を掠め取るように奪ってから、横に逸れた。キスをしたのが現実だと再確認し、茜は真っ赤になってしまった。

「な、な、な」
「んー?」
「なに考えて、なんでキスなんて――」
「だから、茜の気を貰ったんだよ」
「は?」
「簡単に言うと、相手の霊能力を食べて自分のものにしてる、って事だな」

 そう聞くと、少しだけ茜は冷静になれた。つまりキスではなく、ただの『食事』という事だ。それはそうと時計を見たら、本物の朝食の時刻が迫っていた。茜は寝台から起き上がり、自分の使用するはずだったベッドを見た。朝の日差しのおかげか、昨夜ほどの妖しはいない。なんとか荷物を手繰り寄せて、茜は着替えをした。後ろでは桐生も着替えていた。

 気分を切り替えて階下に降り、この日の朝食のおにぎりとインスタント味噌汁を口に運ぶとした。酒本やスタッフ達を見ていると、まるで昨夜の事が嘘のようだ。

 その後は、本日はホテルの内部を撮影する事となり、茜と桐生は台本を一度読み合わせてから、カメラマンと共に各地をまわった。実際にはホテルスタッフの霊がいる所で、女性客の怨念が云々という台詞を述べたりもしたが、ある程度の演技は仕方がないだろうと割り切る。恨めしそうな霊の視線を、茜はスルーした。

 こうしてこの日も、夜が訪れた。撮影の本番は夜だったので、茜は各所で虹陰寺経文を唱える。浮遊霊には効果があったが、より禍々しいものはどうにもならない。変に刺激しないように、唱える場所に気を遣い、スタッフに場所の変更を願い出たりもした。

「あー、疲れた!」

 全てが終わって部屋に戻った頃には、零時を回っていた。本日も茜のベッドの側には魑魅魍魎が屯している。その点、桐生の寝台は綺麗だ。

(理不尽すぎる……)

「今日も一緒に寝よう」
「……もう、変な事はしないでよ」
「変な事って?」
「だ、だからその、キ、キスみたいな事! あれは昨日助けてもらったからで、だから……」
「俺の事、意識しちゃった?」
「うるさい」

 余裕たっぷりの桐生を見ていると、本当に頭にくるなと茜は眉間にシワを刻んだ。

(今日なんて、私の隣で終始、神妙な顔をしていただけのくせに! 自分でお祓いが可能なら、やればいいのに!)

 ただそれでも茜だってやはり安眠は大切だと思うので――本日も桐生のベッドにお邪魔する事にした。不可抗力である。なにせ茜のベッドの下からは、今なお女の霊が覗いているのだから。

 茜が寝台に入ると、横から桐生が抱きしめてきた。

「暑い! 離して!」
「ちょっと抱きしめるくらいいいだろう? 腕枕、腕枕」
「よくない!」
「だけどこのベッド、狭いしな」
「……」

 茜が黙った瞬間、桐生が不意打ちのように、また茜の頬にキスをした。茜は眉を吊り上げた。

「だから変な事をするなって言ってるでしょ!」
「ごめん、ごめん」

 悪びれもなく桐生が笑った。茜は不貞腐れつつ、静かに双眸を伏せた。
 すると疲れきっていたのか、すぐに睡魔が訪れた。


 ――翌日。

 本日は村の散策だ。カメラマン達が廃墟を撮影しに行くという間、茜と桐生は二人で、不穏な場所を確認する作業を任せられた。こちらも本当にまずい場所は避けて撮影する予定なのである。

 朽ちた木造の小屋を一瞥しながら、茜は坂をくだる。元々は家畜が飼われていたらしい。動物霊の気配が濃い。多分何体も、餓死している。あまりにも空気が禍々しくて、茜は目眩がした。口元を押さえながら、桐生を見る。

「桐生さん」
「んー? 遥斗で良いよ?」
「……桐生」
「まぁその呼び方も、呼び捨てといえばそうだな」
「あなた、具合悪くなったりしないの? 私は視ているだけで気分が悪いんだけど」

 どうせ二人なのだからと、茜は上辺の天使像を捨てた。すると桐生が、腕を組んだ。

「一応、色々対策してから来てるから」
「それは私だって一緒」
「なんだろうなぁ。実力の違いかな?」

 桐生の声に、茜は顔を歪めた。芸能人としてのキャリアだけでなく、こちらの方面でまで敗北するとは思ってもいなかったからだ。この空気の中で平気だとするならば、桐生の腕前――少なくとも準備をしたのだろう桐生の周囲の人間は、茜より有能な可能性が非常に高い。桐生にも、茜にとっての奏のような存在がいるのかもしれない。

 その後、あんまりにもこの場所は危険なので、日没までの間に撮影は終わりとするよう進言し、この日のロケを終えた。あとは帰るだけだ。今夜を乗り越えれば、船が迎えに来てくれる。茜はシャワーを浴びながら、ホッと一息ついた。

「今日こそは、変な事をしないでね」

 その夜も、茜は桐生のベッドにお邪魔する事にした。

「俺としては、今日こそ最後だし、もっと茜が欲しいなぁ」
「は?」
「――まぁ、気を取るのは、さ。相手の中に、こちらへの愛情が無いと効果が薄いから、俺は強制奪取も可能だけど……今回はキスで満足しとく」
「次回なんかないし、キスもしないで」

 断言してから茜は布団をかぶった。そんな茜の腹部に腕を回している桐生に対し、身持ちが軽すぎると怒りがわいてくる。陰陽道の関連だとしても、抵抗なくあっさりと好きでもない相手にキスをするというのが、茜には信じられなかった。

 このようにして――翌日には、無事に迎えに来た船に乗り、一同は帰還したのだった。