本格的に夜が訪れて、この日は早めに休む事になった。撮影自体は雰囲気もあるし夜の方がいいようだが、今日は船旅の疲れもあるし、スタッフさん達の仕込みや準備などもあるようである。シャワーを浴びてから、茜は桐生と二人の部屋へと戻った。

 先に戻っていた桐生は、寝台に座ってスマホを弄っていた。茜はタオルを片手に自分のベッドを見る。既に子鬼の姿は無い。シャワーを浴びる前に、荷物に数珠を一つ紛れ込ませておいた結果だ。だが、そんな茜の寝台の周りを、浮遊霊がぐるり囲んでいる。寝台の上だけが聖域となっていた。

「……」

 しかし、おかしい。茜の寝台の側はそのような状態だというのに、桐生の寝台の方には特に何も密集していないのだ。茜が視えるから寄ってくるというのもあるのだろうが、まるで桐生の方は、妖しに『いないもの』として扱われているかのごとく、なにも近づいていかない。

「桐生さん」
「んー? 呼び捨てでいいって」
「これからついたてを置こうと思うんですが、その前に……ベッド、代わってもらえませんか?」
「やだ」

 茜の頼みを、桐生は切り捨てた。

(なんで!? 視えないのなら、こちらのベッドだっていいじゃないの! それとも何? 気配くらいは感じ取れるの?)

「なんなら一緒にこっちで寝るか?」
「……」

 はっきり言って、魑魅魍魎に囲まれて眠るのと、桐生と同じベッドで眠るのは、どちらも嫌だった。しかし命の危機的な意味では、まずいのは霊的な存在である。しかし数珠をはじめとした法具があるから、寝台には入ってこないはずだ。茜は迷った。

「こっちでいいです」
「――ほう。俺の綺麗な綺麗な何もいないベッドより、そっちのうじゃうじゃしてるベッドの方を選ぶのか。茜って変わってるね」
「どういう意味? まさか本当は視えるの? あ」

 茜は思わず天使の口調を崩してしまった。すると桐生が吹き出した。

「だから俺も、霊感があるって言ってるだろ?」
「……」
「尤も俺は今、隠形術(おんぎょうじゅつ)を使ってるから、妖しは俺の事が視えないけどな」

 それを聞いて、茜は目を瞠った。聞いた事がある。確か、小右記等に出てくる、鬼気祭りと称されるような――陰陽道の手法である。虹陰寺家は土着の要素と密教が入り込んだ仏教の一つであるが、幼少時から多少は他の道術等の勉強もさせられるから、いくつか覚えさせられもした。

「茜は、さも美味しそうに周囲に映っているらしい」
「桐生……さんは、陰陽師なんですか?」
「だから呼び捨てで良いって。まぁ、実家はそっち系」

 桐生は楽しそうに笑いながらスマホをしまった。てっきり無能だと確信していたものだから、茜は驚きつつも怒りが沸いてきた。

「どうして視える上に術の心得があるのに、呪鏡屋敷で結界を破ったりしたの?」
「ちょっと色々あって」
「冗談じゃない。どれだけ周囲が迷惑を被ったと思ってるの?」

 上辺が崩れるのも気にせず、思わず茜は告げた。

 別にこんな奴の前で、もう猫をかぶる必要も無いだろうと感じていた。

「事故はつきものだ。スタッフさんが転んで破ってしまったんだけどな、あの規模の者は、迂闊に俺がその場しのぎで塞ぐわけにはいかなかった。それだけ緻密な結界だったからな。しっかし、怖い顔してるのも可愛いな」
「ふざけないで!」
「――俺にも、茜の力は美味しそうに映るんだよな」
「は?」
「気を吸い取る術というものもある」
「何が言いたいの?」

 茜は桐生に詰め寄ろうとした。
 ――その瞬間だった。

「ッ!」

 何かが茜の左足首を掴んだ。

 見れば茜の側の寝台の下から、女の霊が這い出てきたところで、ギリギリと足首を掴んでいる。恐怖というより痛みと衝撃で、茜はその場で体勢を崩した。

「うわ!」

 慌てて手を絨毯の上につく。転んだ茜を、寝台に座って膝を組みながら、桐生は余裕たっぷりの笑顔で見ている。

「本当にそっちで寝るのか?」
「……っ、見てないで、視えてるんなら助けてよ!」

 桐生はじっと茜を見た後、静かに立ち上がった。そして動けない茜の前でしゃがむと、指先で茜の顎を持ち上げた。

「ちょっと気を味見させてくれるって言うんなら、助けようかな」
「は!? それは私にどうしろと言っているの!?」
「簡単なのは、キス」
「頭がおかしいんじゃないの!? っ、痛」

 足首を強く握って引っ張っている女の霊は、茜を寝台の下に引きずり込もうとしている。力が強い。このように実体を持つ存在が相手では、茜の唱えるお経などほとんど効果が無い。身につけている数珠を投げつけたら解放されるだろうが、寝台下に引きずり込まれないよう両手を必死に絨毯についている現状では、それも出来ない。

「このままじゃ、そいつに取り込まれるぞ?」
「だから助けろって言ってるでしょうが!」
「俺のベッドで一緒に寝て、気を味見させてくれるなら良いよ」
「なんなの、それは!」
「最初に見た時から、俺、茜の事気に入ってたんだよね」
「は? っ、ああ、もう、分かったから助けて!」

 茜は折れる事にした。確かにこのままでは埒が明かない。本当に不服ではあるが、生命にはかえられないだろう。茜の言葉を聞くと、桐生が呪符を取り出した。

「急急如律令」

 どこか笑みすら含んだ声音を、桐生が放った。するとその瞬間、茜の体が解放された。必死で呼吸しながら、茜は絨毯を前に進む。するとポンポンと桐生が茜の頭を叩くように撫でた。

「約束、な。こっち来いよ」
「……なんで私が……」

 理不尽だと思った。桐生のせいで、たとえば奏だって手伝いに行ったし、慎夜は結界の張り直しという大変な作業をするというのに、どうして今ちょっとだけ助けてもらったからといって、己は桐生に気とやらを提供しなければならないというのだと考える。

(それでも確かに、怨霊が屯しているベッドで寝るよりは……いい、のかな?)

 悩みつつも茜は起き上がった。桐生は寝台に座り直すと、茜を手招きした。

「早く」
「……」
「ほら」

 しかし助けてもらったのは事実である。茜は唇を噛みつつ、桐生の寝台へと向かった。すると桐生が横になって壁際につめた。茜は隣に腰掛けてから、ゆっくりと横になる。

「わ」

 桐生は、そんな茜を横から急に抱きしめた。狼狽えて声を上げた茜を見ると、桐生がクスクスと笑った。

「じゃ、チュウさせてもらう」
「な」

 茜の頬に、桐生が口づけた。なんだこれ。呆然としていると、今度は桐生が茜の唇を指でなぞった。

「ちょ、ちょっと……」

 そしてそのまま、茜の唇を奪ったのだった。

 その瞬間――茜の体から力が抜けた。
 おかしな事に、何かがごっそり抜けていく感覚がする。

「やっぱり美味しいな」

 唇を離すと、今度は桐生が茜の額にキスをした。だが、茜の体はもう抵抗しようという気にすらならないほどに弛緩していた。

(なに、これ?)

 そう思った次の瞬間には、猛烈な眠気に襲われて、茜はそのまま睡魔に飲まれて眠ってしまった。