あなたがいなくなった後

「優香さん、分からないことあったら、遠慮なく聞いてください」
「ありがとう。頭では簡単に理解できたつもりなんだけど、実際に問題を解いてみるとなんか違うんだよねぇ……」

 思い切って声を掛けてみると、照れ笑いしながら優香が答えてくる。小さな子供がいるから自宅では勉強する時間がなかなか取れないと言い、こうして休憩時間を費やし勉強している姿を見ていると、自分がどれだけ恵まれた環境にいるかに気付かされる。

 所長である宏樹が外へ出ている今、事務所内には優香と吉沢しかいない。換気の為に少し開けられた窓からは、ビル前の通りを行き交う車が走る音が聞こえてくる。
 
 以前に勤めていた事務所の人達は何だかんだと理由をつけて、すぐに外回りに出たがっていた。しかも一旦出たら、なかなか帰って来なかったりする。ようやく戻って来たと思えば全身から煙草の匂いをぷんぷんさせていたり、酷い時にはアルコールで顔を赤らめながら「客からどうしてもって勧められて」と言い訳していたこともあった。昼間から、いい大人が何やってんだと呆れた。

 でも、ここの所長は逆らしく、何時には戻ってくると宣言すればその通りに帰ってくるし、仕事が出来る社会人はちゃんと時間通りに動けるを体現していた。ただ、なんだか少し優香に対しての態度が過保護過ぎるようなのは気になっていた。

「時間になったら、後は吉沢君に任せて、優香ちゃんは帰っていいからね。陽太のお迎えもあるんだし。あと、万が一片岡さんがアポなしで来ても、対応せずに追い返してくれていいから。その場合はすぐに俺に連絡して」

 クドクドと留守中の注意事項を伝えてから、ようやく出掛けていく。いくら女性とはいえ、一従業員にどうしてそこまでと不思議だったが、二人が義理の姉弟なんだと聞いて少し納得した。早くに亡くなってしまった兄が残した家族を守る為なのだ。兄に代わっての責任感とか、そういうやつだろうか? ただ正直言って、やり過ぎだろと思うところもあるが……

「私が社会経験が無さ過ぎるから、宏樹君には心配させてばかりなんだよね……」

 優香はそう自信なさげに言っていたが、吉沢の目には彼女はしっかりとした分別ある大人で、多少のことには負けない強さを持っているように見える。向上心もあるし、別に危なっかしさは感じない。だからきっと、宏樹のあの態度は彼女が言っているのとはまた違う意味を持っているんだろうなと、何となく思ってはいた。