月夜の黒猫は、心を攫う


 もし、稀月くんに出会う前の私だったら。

 魔女の《心臓》のことも使い魔のことも何も知らなかったら。

 母にそんなふうにお願いされて、断ることができなかったかもしれない。

 それが、どれほどめちゃくちゃなお願いだったとしても、施設から引き取られた私には椎堂の家族しかいなくて。椎堂の両親や茉莉に見捨てられたら生きてはいけないと思っていたから。

 だけど今は……。

 稀月くんと出会って、彼が私を見捨てることなんてないってわかってる。

 だから……。

 茉莉のことは大好きだけど、病気のことも心配だけど。私は私の人生を捨てたくない。

 私の特別な《心臓》は誰にも渡せない。たとえ、大好きな茉莉でも。

「いや、です……。《心臓》は渡せない」

「絶対に?」

「絶対に」

 母の目を見据えて、強く否定すると、彼女の美しい笑みが醜く歪んだ。

「そう。それなら、仕方ないわね」

 唇を歪めてつぶやいた母の手から、何かがぽとりと床に落ちる。

 すぐにプシューッとスプレー缶から空気の抜けるような音が聞こえてきて、その状況に既視感を覚えた。

 この感じ、前にも……。

 考える間もなく、足元で灰色の煙が立ち込めてきて、バンッと破裂音が響く。

 そうだ、これ……。

 前に戸黒さんに襲われたときにも仕掛けられた蛇玉……。

 パン、パンッ……!

 あのときのように、連続で何度も破裂音がして、応接室の中が煙に包まれる。