どうやって辺境伯別邸に戻ったのか覚えていない。
 いつもそう。自分はいつも気づくのが遅くて、するりとこの手からこぼれ落ち、失ってから後悔するのだ。
 自分の中で魔力が巡回する不安定な音を聞きながら、エレナは昏昏と眠り続けているルヴァルの顔を見つめる。

「何が、"耳"に自信があるよ」

 いつも通りの"音"だと思った。
 "音"だけに頼り、人の心が読めるだなんて過信して。
 大事な人が無理をしていることすら気づかずに、呑気にただ守られて。

「情けない。お飾り妻すら失格だわ」

 ルヴァルはどんな些細なことですら、気づいてくれたのにと、エレナは自分の察しの悪さが嫌になる。
 ルヴァルの"音"は相変わらず静かで、ソフィアの処置を受けた後は澱むことなく魔力が巡回している。だから、癒しの歌が必要ない事は分かっているのだけど。
 すっと息を吸って自分の体内にある魔力を意識し、エレナは口を開こうとする。

「おやめください、エレナ様。あなたの魔力回路はまだ治療中です。不完全な状態で負荷をかけたら、今度は再生する望みすらなくなります」

 が、エレナの口から歌が紡がれるより早く背後から心配そうなリーファの声がした。

「でも」

「そうそう♪リーファの言う通りですよー。お館様は私が責任もって治療してますから、ご安心ください」

 ひょこっと顔を覗かせたソフィアは明るくそう言って、

「それにしてもお館様は相変わらず化け物じみてますねぇー。エレナ様もそーんな深刻にならなくても、この分なら明朝までには目を覚ましますよ。ただの魔力切れですから」

 心配いらないと診断結果を告げる。

「でも、いっぱい血が出て」

「大半返り血ですって。まぁ、腕は確かに噛み跡ついていて出血してましたけど、治癒魔法もかけたんで大丈夫です」

 手術するまでもなかったと少し残念そうな口調でソフィアは肩を竦める。
 
「腕のひとつでも食いちぎられてたら久々に義手装着術できたのになぁー」

 最近手術する事なくて物足りないとソフィアはルヴァルの状態を片手間でスキャンしつつ、バイタル正常と診断を下す。

「……ソフィア、エレナ様の前で不謹慎です。そもそもお館様がたかだか魔物討伐程度で四肢を落として来るわけがないでしょ」

「ま、そうなんだけどねぇー。って、(医者)が大丈夫って言ってるのに、エレナ様そーんなこの世の終わりみたいな顔しないでくださいよ」

 しょぼんとしたまま椅子に膝を抱えて座り込むエレナを見てしょうがないなぁとため息をついたソフィアは、

「じゃあ特別サービスです。栄養剤1本追加で打っときます」

 これ結構高いんですよーと言いながらソフィアはやたらと大きな注射器を雑にルヴァルに突き刺した。

「ハイ、終了。ってワケなので、いい加減エレナ様の治療させてくれます? 色んなところを擦りむいてますし、足も盛大に挫いているでしょう? 骨に異常がないかも見ておきたいですし」

 ソフィアはそう言ってエレナの足を指さす。
 帰ってからずっとルヴァルの側を離れようとしないエレナは治療どころか食事すら取っていない。

「エレナ様、聞いての通りです。お館様の怪我はまぁ日常なので」

 大丈夫! と力強くリーファは言い切るが、エレナはじっと視線をルヴァルに向けたまま動こうとしない。

「エレナ様」

 リーファが嗜めるようにエレナの名を呼んだ瞬間、パーンっと乾いた大きな音が室内に響く。

「エレナ様、何を」

 両頬を勢いよく叩きすぎたエレナは、両手で自分の頬を押さえたまま、

「……痛いわ」

 とつぶやく。

「エレナ……様?」

「どうしちゃったんですか!? エレナ様」

 口々にそう言ったリーファとソフィアは驚いた様子でエレナの方を見つめる。
 そんな紅玉と濃紺の瞳を見返したエレナは、

「気合い、入れようと思って」

 叩きすぎたわと苦笑し、

「2人とも気を使ってくれてありがとう」

 とエレナは穏やかな口調でそういった。

「私、とても腹が立っているわ。いっぱい見落としのある自分にも、大事な事を教えてくれないルルにも、これが"当たり前の光景"だという認識にも。……とても腹立たしいと感じているわ」

 ぎゅっと唇を噛み、眠るルヴァルにエレナは視線を向ける。
 
「でも、今の私はくよくようじうじしているだけで。子どもみたいに不満を抱えて2人を困らせて心配させている……そんな自分が、情け……なくて」

 エレナはそっと指先を伸ばし、ルヴァルに触れる。規則正しく鼓動を刻む彼は確かに生きていて、触れた指先に熱を感じ安堵する。

「今の私にはバーレーの在り方(ルヴァルのやり方)に何かを言える権利も変えられるだけの力もない。でも、このままじゃ嫌」

 こんな事を続けていたら、今度こそ本当に大事な人を亡くしてしまう。

「今の私には、現状を変える力がない。でも、ただ黙って現状を受け入れて、このままみんなに守られているだけなんて、嫌」

 自分にはルヴァルのように圧倒的な魔力も戦闘能力もない。
 だが、それでもルヴァルがこんな風に傷だらけにならずに済む方法は何かないかと探さずにはいられない。

「誰か、誰かって、願うだけじゃ何一つ叶わないって事を私は知ってる。私、お飾り妻じゃ、嫌だ。ルルの本当の奥さんになりたい。ルルが一人で何もかも背負わずに済むように」

 そのための力が欲しい。
 ルヴァルができない分野で、彼を支え、バーレーのみんなを守るための力が。
 
「……どうしたら、そんな自分になれるかしら?」

 反省おしまい、と言ったエレナは嘆くのをやめて自ら前を向く。
 バーレーに来たばかりの何もかも諦めてしまっていたエレナの面影はなく、自分の意志で考え動き出そうとする一人の淑女がそこにいた。

「ではまず、ソフィアの診察を受けて治療をしてください。それから湯浴みと食事もキチンと取りましょう」

 食べる事は基本ですよ、とリーファは優しくエレナを促す。

「そうですよ、エレナ様。せっかくの綺麗な御御足に傷が残っては大変ですし、治療しましょう。今ならソフィア特製栄養剤1本おまけで打っちゃいます!」

 とソフィアもリーファに同調する。

「それはいいかな」

クスリと笑い返したエレナは、一度目を瞬かせ、

「でもそうね。2人の言う通りにしてあとはルルが起きたら盛大に文句を言うの」

 そう言ったエレナはゆっくりルヴァルから手を離し、これからやるべき事を考える。

「ああ、それはぜひ」

 もう大丈夫そうだと安堵し、クスッと笑ったリーファは、エレナの足に負担がかからないように彼女を支えると、

「それじゃあ、エレナ様。戦闘準備を開始しましょうか?」

 楽しげな口調でそう告げた。