ルヴァル・アルヴィンが神獣と思われる白い狼とその取引をしたのは、彼が1回目の人生を終える間際の事だった。
 この地で見慣れた一面の雪景色。身体の芯から凍えるほどの寒さであるはずなのに、もう何の感覚も無くなっていた。

『……死んでいるのか?』

 耳に届いたその声は今まで聞いた事のない不思議なモノで、はじめはどこから発せられているのかその音源を特定する事ができなかった。
 死ぬ直前には幻聴が聞こえるなんて知らなかったなんて取るに足らない考えが頭をよぎったことを何故か鮮明に覚えている。

『小僧、死ぬのか?』

 何者かの気配に僅かばかり残っていた力を振り絞りルヴァルは顔を動かす。ルヴァルの青灰の瞳には白い狼が映った。

『小僧。お前はまだ死ねないのではないか?』

 その声の主は今度ははっきりとルヴァルの目の前でそう言った。
 ヒトも魔物も沢山の命を蹴散らして、その上に生きてきた人生だった。その最期にみっともなく命乞いをするのは間違っているのかもしれない。
 だが。

「……死ね、ない」

 その時ルヴァルの頭をよぎったのは、城に残して来た臣下達の顔だった。

「まだ、死ねない。ココでは、死ねない」

 今の自分はもう領主でも辺境伯でもない。信頼していた人間に裏切られ、冤罪を着せられ、追われた身だ。
 戻った所で結局この首を取られるだけなのかもしれない。
 それでも今自分がここで倒れたら、その後ろにいる何百人もの命が脅かされる。せめて、これから起きる危機だけでも知らせたい。
 
『ならば、我と取引をしないか?』

 死ねないと答えたルヴァルに対し、白い狼はそう言った。

『その命、やり直すチャンスをやろう。代わりに無惨に殺された我らが同胞、ヒトの形をした歌姫を救って欲しい』

「歌……ひ、め?」

『もう、彼女だけなのだ。その能力を持っているのも、我らに安寧をもたらせるのも』

 その白い狼は切実にそう訴える。神獣との取引。それによってこの状況が打開できるかもしれない。
 どうせ何もしなければこのまま死を待つだけの命だ。ルヴァルは深く考える事なく頷いた。

『今世の彼女の名はエレナ。エレナ・サザンドラ。我らが同胞。我らに安寧と力をもたらすモノ』

 エレナ・サザンドラ。
 ルヴァルはその名に聞き覚えがあった。確か数年前に亡くなった、国で唯一のカナリアと呼ばれる歌姫の名前だ。

『ただの人間であるお前が今世の記憶を全て保持してやり直す事はできないが、巻き戻った時間で歌姫が本来の能力を覚醒できるようにお前に"共鳴の力"を授けてやる。彼女はお前にとっても助けになるだろう』

 そう言った白い狼は、ルヴァルの手に前足を重ね取引成立とばかりに一際大きな声で鳴いた。

『約束を忘れるな。歌姫のいない世界にお前のこれから先の時間はないということを』

 ルヴァルの意識はそこで一度途切れる。おそらくその後自分は死んだのだろう。
 次に目を覚ました時、ルヴァルは懐かしい自室のベッドの上にいた。戻った日付はルヴァルが死を迎えたあの時より3年前の日であった。

******

「知らない事が多過ぎる、な」
 
 とルヴァルは独り言とともにため息をつく。
 1回目の死を迎えたあの日を除き、ルヴァルは神獣に遭遇した事はない。
 巻き戻る前の自分との違いは、あの時白い狼が踏みつけた右手の甲にそれまでなかった雪の結晶のようなあざができたことと、前回の人生の記憶があることだけ。
 エレナに会えば分かるかと思ったが、あの白い狼がいった"共鳴の力"とは何なのか、ルヴァルには全く分からない。

 あの時は時間も選択肢もなかったとはいえ、神獣と取引するならばもっと内容を明確に確認しておくべきだった、とルヴァルは今更ながらそう思う。
 エレナを救って欲しいとは言われたが、何を基準にエレナは救われたと言えるのかルヴァルにはそれが分からなかった。
 単純にエレナが生きてさえいればいいのか、それとも。

「……殺された、か」

 過去の彼女の無念を晴らせばいいのだろうか?
 ルヴァルはそう独り言を漏らす。
 確かルヴァルの記憶では過去のエレナは病死であったはずだ。

「誰が、エレナを殺したのか?」

 南部で生きていた彼女について、ルヴァルが把握している事はそう多くはない。
 時が巻き戻るなどという俄には信じがたい現象。それをエレナが自覚している様子はなかった。
 エレナが自身の死の真相について知らない以上彼女の身にこれから起こるだろう事について、ルヴァルに把握する方法はない。
 ならばエレナ自身にも身を守る手段を身につけて欲しいのだが。

「歌に魔力を込めるカナリアの力、か」

 ルヴァルは彼女が失くしたモノについて考える。
 現在エレナは魔法が使えないどころか、日常会話もままならない状態だが、もしそれを取り戻すことができたなら?

「再生医療魔法……か」

 ルヴァルはこの城の医師、ソフィア・イーシィアの顔を思い浮かべる。
 神の領域に足を踏み入れたと教会から糾弾され、こんな辺境地まで流れてきた変わり者の外科医。
 彼女のおかげでアルヴィン辺境伯領所属の兵は負傷後の現場復帰率が高く、戦力を欠く事がなくなった。
 その彼女が現在研究しているものが、再生医療魔法だった。

「でも、ま。あれは現時点で実験段階。俺が死んだ時点でもまだ実用化には至ってなかった筈だ」

 だが、実用化に向けた取り組みはなるべく早い方がいい。
 これからこの領地で、そしてこの国で起こる出来事を知っているから尚更、保険は多い方がいいとルヴァルは思う。
 反逆の芽はルヴァルが時を戻るずっと前から存在し、今も刻々とその機会に向けて準備がなされている。
 前回の通りならこの地はあと数年で国取りゲームの最前線の舞台となるのだろう。
 ルヴァルの脳裏に浮かぶのは1回目の人生での出来事で、誰よりも信じていた存在に後ろから刺された時の傷の痛みを思い出す。
 身体の痛みより刻まれた心の痛みの方がずっとうずく。自分を裏切りこの地に混乱をもたらしたときの悔いるような彼の顔が、忘れられない。
 なぜ、ああならなくてはならなかったのか? ルヴァルはやり直しの人生でその答えを知りたかった。

「冷酷無慈悲、鬼や悪魔と罵られても文句は言えない」

 カナリアでなくなったエレナがいずれ婚約破棄されると知っていたとはいえ、今時点のエレナには愛する婚約者がいたはずだ。
 そんなエレナの事を無理矢理金で買って、自分の都合で理不尽に家族から引き離した。
 使用人の格好で逃げ出したくなるほど、エレナは自分との結婚が嫌だったのだろう。

「俺にエレナを害した人間を罰する資格などないな。結局、俺は何も知らない彼女を俺のために利用し、その能力を搾取しようとしているのだから」

 自分のやり直しの人生に、エレナの意思は丸っと無視して、やらなくてはならない事のために自分勝手に彼女を巻き込み利用するのだ。
 本当に碌でもない人間だな、と自嘲気味に呟くも、

「変えてみせる。今度こそ、失わずに済むように」

 とルヴァルは改めて決意した。