月日はあっという間に流れていき、建国祭前夜がやってきた。
 アルヴィン辺境伯別邸は王都の郊外、栄えている地区からは随分外れた場所にひっそりと存在した。
 こんな場所があったなんて知らなかったと驚くエレナは、外観と内装のギャップに更に驚く。
 建物には無造作に蔦が這い、まるで廃屋のような外観なのに、中はしっかりと手入れされシンプルで品がよく、質の高い調度品で整えられていた。
 ルヴァル曰く、

『目眩しの魔法もかけてあるが、念のために偽装している。俺を狙ってくる輩は掃いて捨てるほどいるからな。迎撃するならおもいっきり暴れられる場所がいい』

 という事らしい。

 エレナは久しぶりに踏んだ王都の地で空を見上げる。すでに夜は肌寒さを感じる季節に入った北部とは違い、まだ生ぬるい風が駆けるここでは一年を通して寒さに怯える心配はない。

「〜〜〜♪----♪」

 バルコニーに出て星座ををなぞりながら、エレナは静かに歌を口ずさむ。
 一曲終わったところで、トンっという小さな音と共に空からルヴァルがバルコニーに降りてきた。

「ルル、一体どこから?」

 驚くエレナに、

「屋根から」

 とルヴァルは得意げな顔で上を指す。

「レナの耳は常に全ての音を拾っているわけではないんだな」

 そう言われたエレナは少し考えて、

「聞こうと思わなければ、自分にとって必要な音しか拾っていないのかも。逆に聞きたいと思えばどんな些細な音でも聞こえるし」

 自分でも良く分かっていないのと微笑んだ。
 確かにこの世に存在する全ての音を常に聞いていたら、きっとうるさ過ぎて落ち着かないなとルヴァルは納得したように頷いた。

「眠れないか?」

 ルヴァルが静かにそう尋ねる。

「少しだけ、緊張してしまって」

 ルヴァルの問いかけに紫水晶の瞳を柔らかく優しげに瞬かせたエレナは自身の指先に視線を落とす。

「もう、2度と会うことはないと思っていたから。だけど、今この瞬間にもこの王都の別邸にいるんだろうなと思うと……どうしても落ち着かなくて」

 エレナははっきりと"誰が"とは言わないが、その相手が容易に想像できるルヴァルは嫌そうな顔をしてチッと舌打ちをする。
 そんなルヴァルを見てクスッと笑ったエレナは、

「心配してくれてありがとう」

 と礼を述べる。

「俺は礼を言われるような事は何一つしていないが」

 ぶっきらぼうにそういうルヴァルにクスクスとおかしそうに笑いながらエレナは近づきいつのまにか大好きになっていた青灰の瞳を見上げる。

「だって、ほら。ルルは今私の事を気にかけてくれているから、こんな夜更けにわざわざ部屋まで見に来てくれたんでしょ?」

 だからありがとう、とエレナは微笑みながら再度礼を述べる。

「……好意的に解釈し過ぎじゃないか?」

 少し呆れたような、だがとても柔らかく優しい口調でそう言ったルヴァルはクシャッとエレナの黒髪を撫でる。
 エレナはそれに素直に応じながら、

「だって私、耳には自信があるから」

 と得意げにそう返し、目を閉じる。
 ルヴァルを取り巻く音は今もこんなに優しい。その音と自分の早くなった心音に耳を傾けながら、エレナは幸せそうに短い歌を口ずさんだ。

「……平気、か?」

 特に言葉を交わす事なく静かにお茶を飲みながら星を眺めていると、不意に隣からそんな言葉が降ってきた。
 じっとルヴァルの表情を見ながら、エレナは短いその言葉の意味を考える。
 ルヴァルは巻き戻った時間で今、2回目の人生を生きている。
 という事は、この年の建国祭で自分に起きた事もルヴァルは当然知っているのだろう。

「今世での婚約破棄ならもうされてるから」

 エレナは淡々とした口調で事実を口にする。

『エレナ、君との婚約を破棄したい』

 そういった時のエリオットの強張った声(拒絶の音)を思い出す。
 1回目の人生では、自分はどうやらこのめでたい日(建国祭当日)に人前で婚約破棄されたらしい。だが、夢を通して思い出したその出来事は、今世実際に受けた婚約破棄の時と比べエレナの感情を揺さぶる事はなかった。

「1回目の時は、婚約破棄されたからそのあとダンスを踊る事もエスコートされる事もなく、かと言って勝手に帰ることも許されなくて、マリナ……妹の手を取るエリオット様をぼんやり眺めているだけだった」

 地味で目立たない捨てられた自分とは違い、自信に満ち溢れた顔で堂々と人前で新しい婚約者として振る舞い、エリオットの手を取るマリナ。
 見目麗しく寄り添っている2人を見て、婚約破棄は妥当だろうと密やかに囁かれるつぶやきを耳が拾い、苦しくて悲しくて心が死んでしまいそうになっても、自分のために涙一つ溢す事ができなかった過去のエレナ。

「でも、今の私にはルルがいるから」

 平気、と笑おうとしたエレナの肩を引き寄せたルヴァルは、彼女を自分の方に寄り掛からせて。

「作った顔は好きじゃない」

 静かな口調でそう告げる。
 ルヴァルの口からそれ以上言葉は落ちてこない。
 ルヴァルの言葉を反芻し、何度か瞳を瞬かせたエレナの顔から笑顔が消える。
 どうしてルヴァルはこうも的確に気づいてくれるのだろうと、エレナは心の奥に暖かさを覚えながら、

「ルルは、やっぱり優しい」

 少し泣きそうな声でそうつぶやく。

「そんな事はないが」

 とルヴァルは短く訝しげな声音で返事を寄越す。

「泣かせた人間の数など覚えていないし、不名誉な渾名はそれこそ数え切れない」

 そして改める気はないと言い切るルヴァルにエレナはクスクス笑う。

「みんな見る目がないのよ」

 風で靡いた黒髪を耳にかけエレナはそう言った。

『作った顔は好きじゃない』

 という先程の言葉を聞こえた"音"で意訳する。

「私、耳には自信があるの。ルルは、世界で一番優しい」

 エレナは歌うように言葉を口にする。

『無理して笑わなくていい』のだと。
『泣きたいなら泣けばいい』のだと。

 エレナはそう解釈する。
 それはかつて、自分が"誰か"に許されたかった事だった。

「お話、聞いてくれる?」

 ルヴァルは返事の代わりにエレナの頭にポンと大きな手のひらを乗せる。
 自分に触れるその優しい手つきを感じながら、エレナは静かに言葉を紡ぐ。

「ルルが私のことを心配してくれるのはとても嬉しいのだけど、でも私にはそうしてもらう資格がない」

 だからルヴァルが心を砕く必要はないのだとエレナの紫水晶の瞳はどこか遠くを見ながらそう言った。

「私、ね……本当は。ずっと……ずっと前からエリオット様から愛されてないって知ってた。でもね、私は私のために都合が悪い事から目を逸らして気づかないフリをしていたの」

 エレナはエリオットが自分に向ける感情が、歪なモノだと知っていた。
 知っていて、知らないフリをした。誰からも愛されていないのだと突きつけられる家族からの仕打ちに一人きりで耐える事ができなかったから。

「私、本当は全然……いい子なんかじゃない……の」

 エレナは罪を告白するかのようにそう言いながら、自分とエリオットの間にあった歪な関係を振り返る。
 エリオットがどんな思惑で自分に耳障りのいい言葉をくれているのだとしても構わなかった。そうして"かわいそうな自分"でいる事を選んでいたくせに、いつかエリオットが何とかしてくれたらなんて他力本願で無責任な願いを彼に押し付けてしまった。

「マリナに言われたの。"お姉様の婚約者になんてなったばかりに、こんなに傷ついて"って。"もしも僅かでもエリオット様を愛しているなら今すぐ身を引くべきだ"って。ある意味、それは的を射ていたなって今なら思う」

 それは婚約破棄の時マリナから突きつけられた棘を孕んだ言葉の数々。

「確かに一方的な婚約破棄は傷ついたんだけど。でもエリオット様の優しさを利用していた私には彼の事を責める資格なんてないのよ」

 エリオットは心が弱い人だった。
 彼が自分の隣にいる事で辛い思いをしている事に気づいておきながら、"カナリア"の仕事は絶対だからと自分を優先して彼に寄り添う事をしなかった。

「私は生家での扱いに確かに沢山傷ついていたけれど、だからと言って自分の弱さや甘えを理由にして、私が生き残るためにエリオット様を巻き込んで、その心を傷つけていいという事にはならないわ」

 自分が"カナリア"であることが彼を苦しめる要因であったなら、もっと早く手を離すべきだったのだ。
 お互いに傷ついて、依存し合う歪んだ関係になってしまう前に。
 
「私は、きっと」

 本当の意味では彼を愛してなどいなかったのだろう。
 道具のように彼の"優しさ"を使った自分には、エリオットを責める資格はないとエレナは思う。
 そもそも今更過去の出来事(婚約破棄)について何かを言う気はないが、会場にいけば否が応でも顔を合わせる羽目になる彼に、どんな顔をして会えばいいのか分からなかった。

「ごめんね、きっとルルも私のせいで沢山嫌な言葉を聞く羽目になると思うわ」

 自分が何を言われたとしても、それは自業自得だから構わない。だけど、ルヴァルが自分をパートナーとして伴うことで嫌な思いをするのは嫌だ。
 ごめんなさいと繰り返し謝るエレナを見たルヴァルは目を閉じる。
 エレナの主張を自身の中で噛み砕くこと数秒。
 ルヴァルは目を開くとこれ見よがしにため息をついて自分の最大出力の100万分の1に抑えた威力で、エレナの額に勢いよくデコピンを喰らわせた。