魔物との遭遇はエレナが思うよりずっと早く訪れた。
 目の前に立ち塞がる自分より遥かに大きい獰猛な魔物ダークベアが恍惚とした瞳をコチラに向け、牙を剥き出しにし雄叫びをあげる。
 捕食者。そんな言葉が頭を過ったが、エレナは不思議と怖くはなかった。

(どうせ、本当ならあの日死んでいたのだし)

 あの日、気分転換も大事だよとエリオットに手を引かれ、つい散策が楽しくて道を外れて森の深くまで入ってしまった日。
 まさか魔物の湧く黒い沼地が、あんな所に存在しているなんて思いもしなかった。
 何百もの魔物の目に一斉に止まった恐怖。あの時の体験に比べれば、ダークベア1匹など可愛いものだ。
 対峙したダークベアが鋭い爪を振り翳して吠える。

(ああ、あの時のエリオット様は、震えながらそれでも私の前に立ってエレナは逃げろって言ってくれたな)

 もし、あの時エリオットの言葉に従って逃げるために動いていたら、きっとその瞬間にあの鋭い爪で切り刻まれていただろうけれど。

(命に代えてもエレナは守るって、言ってくれたんだっけ。だから、この人だけは何に代えても守らなきゃって思ったのにな)

 振り落とされる爪の軌跡を紫水晶の瞳に映しながら、頭に浮かんできたのは婚約破棄の時のエリオットと寄り添うマリナの姿で。

(嘘つき)

 薄寒い感情を覚えながらエレナは心の中でつぶやいて、痛みに備えて目を閉じた。

(……!?)

 一拍置いて訪れたのは痛みではなく、鼻をつくような錆びた鉄の匂いと頬や首に飛んできた生暖かい液体。
 何が起きたのか分からず、ゆっくり開けたエレナの目に映ったのは、美しく輝く銀色の髪と広い背、その人が握る刃から滴り落ちる赤い液体。
 ふと、エレナは自分の頬に触れ指先を確認すれば、同じく赤黒くヌメる液体がついていた。
 エレナが視線を地面に向けると、先ほどまで威勢よく吠えていたブラックベアが物言わぬ存在として横たわっていた。
 どうやらこの人がブラックベアを倒してしまったらしい、という事をエレナは悟る。

(……私は、また逝き損ったのね)

 しかも今度は他人の手を煩わせてしまったと罪悪感を覚える。

「何故、待たなかった」

 そんなエレナにエリオットより随分低く抑揚のない声がそう尋ねた。
 答えないエレナに舌打ちし、その人が緩慢な動作で振り返る。

「そんな格好で逃げ出したくなるほど、嫌だったのか?」

 抑揚のない声で尋ねる青みがかった灰色の瞳と感情を映し出さない紫水晶の瞳が宙で視線が絡んだ。

 何のことだろうか?
 はて、とエレナは考え込み首を傾げる。
 紫水晶の瞳を瞬かせ、エレナは自分に問いかける相手をじっと観察する。
 月明かり頼みの光量でも輝く銀糸に陶器のような白い肌。あんな大きな魔物を一撃で仕留めたとは思えないほど細身で中性的な整った顔立ち。社交界なら瞬く間に淑女達の視線を集めてしまいそうな美丈夫。
 視覚情報に基づきつらつらと特徴をあげるもやはり彼に見覚えはない。

(……どちら様かしら?)

「聞いているのか?」

 聞こえてはいる。音を生業としていたからか、耳は人より随分いい方だと自負している。ただ声が出ないから答えられないだけで。
 頼んではいないがとりあえず助けられた礼くらいは述べるべきだろうと、エレナが紙とペンを取り出そうと鞄を開けたところで、

「こんのぉ、ど阿呆!! ルヴァー、お前いきなりエレナお嬢様に何しとんじゃーー」

 一際大きな声が響き、薄茶色の髪をした男性がどこからともなく現れて、2人の間に割って入る。

「あーー!! エレナお嬢様が血まみれにっ!!」

 叫び声に驚いて目をパチパチさせるエレナに、

「エレナお嬢様お怪我は? このバカが一人突っ走ったせいで怖い思いをされましたね」

 とても慌てた様子でそう話しかけた。

「おい、リオ。主人に向かってバカとはなんだ」

「バカはバカだろうが。女性の前でいきなり魔物に斬りかかって、挙句魔物の血で汚すとは何事だ」

「魔法で爆ぜさせた方が良かったか?」

「結果血が飛び散るのは一緒だろうがボケェーーー!! もっとこうさぁ、お前には気遣いとか配慮とかないのか!!」

 リオと呼ばれた青年はドン引き案件だと騒ぎ立て、慌てた様子でエレナにタオルを渡す。

「……それは人命救助より優先されるべき事項なのか?」

 解せないという表情を浮かべる主人に、

「そうじゃない! そうじゃないけど、ルヴァーお前、第一印象最悪だからな!? 挽回できなくても、全部お前の落ち度だからな!?」

 なお容赦なく罵声を浴びせる従者。
 それほどまでに二人は気安い関係なのだろうが、こんな主従関係をエレナは見た事がない。

(一体、私の目の前で何が起きているというの?)

 急な展開に驚いて内心パニック状態になるエレナだが、悲しいかな鍛え上げられた表情筋はこの事態にもぴくりとも動かない。

「ああ、もういい。ルヴァーへの小言は後にする」

 リオはそう言うと、無表情のままリオと不機嫌そうな青年の間でじっと視線を漂わせていたエレナの方に向き直る。

「エレナお嬢様。お迎えが遅くなり申し訳ありません」

 そう言ってリオは謝罪を述べると、

「私、アルヴィン辺境伯の筆頭執事を務めております、リオレート・グランデと申します。そしてこちらが当家の主人であるルヴァル・アルヴィン辺境伯、あなたの夫になる方です」

 以後お見知り置きをととても綺麗な動作で恭しく礼をした。

 歌姫としての仕事着以外でこんな上等なドレスに袖を通すのはいつぶりだろうかと思いながら、エレナは案内してくれる侍女についていく。

瞬間移動魔法(テレポーテーション)。実物を見るのは初めてね)

 あの町外れから最北の地バーレーにあるこの屋敷まで本当に一瞬だった。
 当主自らの出迎えとその筆頭執事のおかげでこうして無事にたどり着いたけれど、ルヴァルは始終無口で不機嫌そうだった。

『そんな格好で逃げ出したくなるほど、嫌だったのか?』

 そう聞いた時の睨みつけるような眼力を思い出し、エレナは身を縮める。
 ルヴァルはおそらくエレナがこの婚姻が嫌であんな格好であんな場所にいたと思っているに違いない。

(……誤解、なんだけどな)

 そう思いつつもエレナは首を振る。言い訳をするだけ無駄だし、した分だけ苦しみが長くなるということをエレナは実家で耐え続けた生活を通して知っている。
 ここでどんな仕打ちを受けたとしても、他に行ける場所はなく、自分には諦めて耐える以外にできることはないのだ。

(理不尽に扱われることにも慣れている。怖いことなど何もない)  

 もし、ここがどん底なのだとしたらこれ以上落ちる先などないだろう。
 そう自分に言い聞かせたエレナは心を深く閉ざしたまま、案内された部屋に足を踏み入れた。

 部屋にはこの屋敷の主人であるルヴァルとその執事のリオレートがいた。
 エレナの事を目に留めたルヴァルは青灰色の瞳でじっと見た後、

「…………来たか」

 と静かにそう言った。
 エレナは2人からほどほど離れた場所で足を止めて、静かに慣れた様子でカーテシーをする。
 本来ならここで名乗らなくてはならないのだが、今のエレナは声が出せない。

(この人達は私の事情をどこまで知っているのかしら?)

 いきなり嫁ぐことになりなんの説明も受けていないエレナには情報量が少な過ぎて推し量ることができない。
 そのためエレナはただ黙って事態を見守る事にした。

「先程は大変失礼いたしました。お嬢様、お召し物はお気に召しましたか?」

 部屋の沈黙を破ったのはリオレートだった。
 エレナはコクンと頷くと自身の喉に手を当てる。

「お嬢様、もしやまだ喉を痛められたままなのですか?」

(私が声を出せない事は知っているのね)

 内心ホッとしたエレナはコクンと頷き、持参したメモ帳にサラサラと文字を綴る。

『喉を酷く痛めてしまい、まだ声を出す事ができません。筆談になる事をお許しください』

 文字を見せるために2人の側まで近づくとエレナはメモ帳を差し出す。

「事情は大方聞いております。筆談で大丈夫ですよ。明日にも医者の手配をいたしますので、引き継ぎ治療を続けましょう」

 リオレートの言葉を聞き、エレナは内心驚く。自分のためにわざわざ医師を呼んでくれるというのか、と。

 声が出せないエレナが目をパチパチと瞬かせるのを見たリオレートはクスリと優しい笑顔を浮かべ、

「急ぎ準備したもので、ご不便はありませんか?」

 と尋ねる。そんな声かけにまたしても驚くエレナは躊躇いがちにコクンと頷く。
 屋敷に着くなり血まみれでボロボロの服を着たエレナを見た侍女達が絶叫し、慌てて湯浴みをし、甲斐甲斐しく世話をしてくれたのだ。
 不便などあるはずもない。

「それは良かった。私の事はリオと気軽に呼んでください」

 と告げるリオレートの言葉にエレナは了承の意を伝えるためコクンと頷き、まだ礼を述べるどころか名乗ってすらいないことを思い出し、慌てて文字を綴る。

『エレナ・サザンドラと申します。先程は危ないところを助けていただきありがとうございました。また、お迎えを待たず申し訳ありません』

 そもそも迎えが来る事自体聞いていなかったのだが、それも含めて全て自分側の落ち度だ。

『このような素敵なドレスをお貸し頂き、感謝いたします。どうぞ私の事はエレナとお呼びください』

 エレナはそう綴ると感謝と謝罪を込めて深くお辞儀をした。

「頭をお上げください。それとそのドレスはお部屋に用意してあるものも含め全てエレナ様のものですよ」

 リオレートの言葉に三度驚きながらエレナはそろりと顔を上げる。

「エレナ様はルヴァル様の奥方となられるのですから、どうぞ何でもお申し付けください」

 あとでエレナ様の専属侍女もご紹介しますねとにこやかに告げられ、エレナはますます混乱する。
 何故、カナリアでなくなった自分をこんな高待遇で迎え入れるのか?
 全く理解ができない。
 これから夫となるらしいルヴァルの方にエレナは視線を向ける。
 じっとリオと自分のやり取りを見ていただけで言葉を発しなかったルヴァル。彼はこの婚姻をどう思っているのか?
 そう思っていたエレナと目が合うと、ルヴァルはおもむろに口を開く。

「死にたかったか?」

 その冷たく冷ややかな低い声にエレナは心臓を掴まれたかのように苦しくなった。

「おい、ルヴァー」

 制するリオの言葉を無視してルヴァルは続ける。

「残念だったな、逝き損なって」

 それは、確かに先程エレナが思った事だった。

「俺の前で簡単に死ねると思うなよ」

 息を呑んだエレナに止めのようにルヴァルはそう言い放った。

(私は、この人に一体何をしたと言うのだろう?)

 乾いた嘲笑を自分に向けたエレナは、ルヴァルに初対面で心を覗かれ踏みつけられた事に耐えながら、深く深く頭を下げる。
 どのみちルヴァルに嫁ぐ以上エレナに選択権などあるはずもない。

「以上だ。下がれ」

 優しい言葉など、もとより期待していなかった。
 ただエレナにはっきり分かったのは、これはルヴァルの望んだ婚姻ではなく、どうやら自分は彼に嫌われているという事だった。
 それでも、ここ以外に居場所はない。
 ただ、耐えるしかないのだ。
 いつか死を迎えるその日まで。