早朝、誰に見送られる事もなくエレナは静かに生家を後にした。
 出入りの許されている裏戸からもう戻れない1歩を踏み出し、17年暮らした我が家を振り返る。だが、なんの感慨も浮かんで来なかった。
 あの家から持って出たのはわずかなお金と婚礼衣装と称して押し付けられたマリナの流行遅れのドレス数点。それらに袖を通す気になれず、道中の衣服としてエレナが選んだのは着慣れた使用人の古着だった。
 馬車に揺られながらエレナはぼんやりと窓の外を見る。

(何もしなくていいなんて、贅沢。こんな時間も最後かもしれないわね)

 流れて行く景色を見ながらエレナはそんな事を考えた。

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 エレナはサザンドラ子爵家の長女として生を授かった。
 サザンドラ子爵家は小さいながらも自然豊かで作物の良く育つ領地を有しており、歴史あるウェイン侯爵家の親戚筋にあたる家柄だった。
 サザンドラ子爵家自体は下級貴族だが、一つだけ普通と違う点がある。
 この家には"カナリア"と呼ばれる魔力を歌に込めて魔法が使える歌姫が生まれる。それ故に下級貴族でありながら様々な面で優遇されていた。
 だが、それももう昔の話となりつつある。カナリアの力を保とうと近い親族での近親婚を繰り返し、子がどんどん生まれなくなっていったのだ。
 エレナの実母エリアナがサザンドラ子爵家の後継者として立った時にはもう、彼女以外カナリアもサザンドラ家の血を引き後を継げる者も他にはいなかった。
 外部の血を入れて、せめて魔力を保たなくては。そんな思惑で組まれた縁組。それが、エレナの父レイモンドと母エリアナの婚姻であった。
 父はウェイン侯爵家が懇意にしていた魔力の強いグローザ伯爵家の出身で、三男であった父は入婿としてサザンドラ子爵家を継ぐ事になった。
 爵位の継げない次男、三男が入婿として他家に入る事も、家の維持のための結婚も良くある話で、それはこの世界ならどこにでも転がっているような政略結婚だった。
 2人が出会ったのは婚約を結ぶ当日で、交わされた契約は滞りなく果たされ2人は夫婦となった。
 とは言え、2人の仲はそう悪くなかったとエレナは記憶している。
 母は身体が丈夫な方ではなかった。
 そんな彼女が体調を崩せば、気遣わしげに寄り添っている父の姿をエレナは覚えているし、2人が連れ立って領地の視察に行くのを見送った記憶もある。
 何より気難しく自分には優しい言葉などかけた事もない父が、とても穏やかな顔で母の歌に聞き入っていたのだ。
 母はエレナ以外に子を産めず、幼少期にはすでにカナリアとしての能力を発現していたエレナがサザンドラ子爵家の次期後継者に定められるまでそう時間はかからなかった。
 祖父と父はあまり折り合いが良くなかった。その一因は父のエレナに対する態度であったように思う。
 それでも寄る年波には勝てず、祖父が父に家督を譲る際、エレナが成人したら後継者として家督を譲る事を条件とした。
 また、次代のカナリアがエレナしかいない事を心配した祖父と母の強い希望でウェイン侯爵家の次男エリオットと引き合わされ、彼の婚約者となった。
 ウェイン侯爵家からの入婿など、身分差から考えれば異例中の異例だった。それほどまでにカナリアとは貴重な存在だったのだ。
 その歌の魔法は大地を癒やし豊作をもたらし、神獣に捧げれば土地やそこに生きる人々の生活を護り、襲いくる魔物を滅する。
 また、歌を聞く人々は不思議と心が穏やかに、また冷静になれる癒やしの効果があった。
 そんなカナリアである事にエレナは誇りを持っていた。
 父が厳しい分、母はエレナにとても優しかった。
 父の自分に向ける厳しさはたった一人しかいない後継者を立派に育て上げるためのものなのだと信じて疑わなかった。
 祖父に続き、実母が亡くなり、喪が明けるより早く父が後に義母となるカレンと腹違いの妹であるマリナをサザンドラ子爵家に連れて来るまでは。

「アンタなんか、生まれて来なければ良かったのよ!」

 圧倒的な理不尽と暴力。
 義母となったカレンから向けられた憎悪は幼いエレナの上に容赦なく降りかかってきた。
 どうやらカレンは母と父の政略結婚の話が持ち上がるより前からの父と恋人だったらしく、両親の結婚後もその関係はずっと続いていたらしかった。
 その証拠に父とカレンの間にはマリナの存在があった。
 伯爵家を継ぐ予定のない三男と領地を持たない男爵家の令嬢。その2人の婚姻よりもサザンドラ子爵家と縁を結ぶ方が父の生家であるグローザ伯爵家としてははるかに条件が良かったのだろう。
 だが、カレンにとってエレナは愛した人と自分の仲を引き裂いた憎い女の子でしかなく、知らない女と父の面差しが混ざったエレナの顔立ちが一層カレンを苛立たせた。

「ああ、アンタのその黒髪が、その紫色の目が憎い。いっそのことズタズタに引き裂いてしまえればっ」

 エレナの髪を引っ張りながら狂気的に叫ぶカレン。

「何をしている」

 父がその現場に足を踏み入れたのはカレンがエレナの頬を打ち、エレナの口から血が溢れた時だった。

「お父様助けてっ! カレン様が」

「あなた、これはエレナが」

 言い訳をしようとしたカレンと助けを求めるエレナ。両者に視線を彷徨わせた父はため息をつき、

「顔はやめておけ。それは、国に仕える"カナリア"だ。公務で怪我が目立てば管理責任を問われる」

 淡々とした口調でそう言った。

「お父……様?」

 カレンを連れてくる前までの父は厳しくとも"それ"などとまるでモノのように呼ぶような事はなく、いずれ子爵家を継ぐのだからとエレナに後継者として領地について教えてくれていた人だった。

「カレンの機嫌を損ねるな。全く、マリナを見習え」

 エレナは父の言葉に驚き、大きな瞳を更に見開く。
 暴力を振るったカレンを嗜めるのではなく、カレンの機嫌を取れと言った。更には突然やって来て我が物顔で振る舞う異母妹を見習えという。
 エレナには父の言葉の意味が分からなかった。否、理解したくなかった。

「カレン。こんな些細な事で俺を煩わせるな」

 些細? とエレナは父の言葉を口内で転がす。
 こんな理不尽な暴力が、暴言が、些細な事だというのか?

「ええ、分かったわ。あなた」

 カレンはとても上機嫌に綺麗に笑ってそう返事をする。それを見た父は、エレナに声をかける事なく出て行った。
 言葉を失くしその場に座り込んだエレナの襟首を掴んで無理矢理自分の方を向けたカレンは、

「簡単に死ねると思わないことね。せいぜい国のために励みなさい、オルゴール」

 そう言って不敵に笑った。

 その日からエレナの生き地獄は始まった。
 カナリアの仕事着以外のドレスは取り上げられ使用人のように扱われたし、エレナを庇う使用人たちは皆解雇された。
 母の形見も全て取り上げられ、エレナの部屋は一番日当たりの悪い物置のような狭い場所に押し込められた。
 顔以外は些細なミスでも容赦なく鞭を打たれたし、嫌がらせのように食事を抜かれる事も度々あった。
 歌姫は身体が資本だ。
 エネルギー不足で歌えなくなったり、魔力が込められなくなってはカナリアとしての務めが果たせない。
 その為、カレンからの嫌がらせはかろうじてカナリアとして務められる力は残るように加減されたモノだった。
 だから父がカレンを咎めるような事はなかったし、異母妹であるマリナがカレンを真似て傍若無人に振る舞うまでに時間はかからなかった。

******

 ゆっくりとエレナの意識が浮上する。どうやら眠っていたらしいと認識したところで、静か過ぎる事に違和感を覚える。
 外を見れば真っ暗で馬車は停車している。不思議に思ってドアを開ければ、行者はおらず馬もいない。
 エレナは状況を察して小さくため息をつく。おそらくカレンの差金なのだろうが、どうやら置き去りにされたらしい。
 困ったわね、とエレナはどこか他人事のようにそんな事を考える。
 こんな山奥に置き去りにされたなら、末路は野盗に襲われるか、魔物に食い荒らされるかの2択だろう。
 いずれにしてもいつまでもここにいるわけにもいかないかと、エレナは小さな鞄を手に歩き始めた。