夜風がエレナの長い黒髪を靡かせる。頬に触れる空気はすでに慣れてしまった北部の澄んだ冷たくも心地いいものではなく、ねっとりと湿気を伴った澱んだものだった。
 身につけていた宝飾品は全て取り上げられて、邪魔なドレスは自らの意思で脱ぎ捨てた。
 エレナが身に纏うのはシュミーズドレスだけだ。
 白い肌にはみみず腫れができ、扇子で殴られたせいで切れた口の中には鉄の味がしていたが、エレナは一切構わず足を引きずりながら屋根の上を歩く。
 強風が駆け抜ける気配に足を止め、身を固くする。風に煽られた途端、視線が地面に落ちてしまった。

(ここから落ちたら、きっと私は死んでしまうわね)

 それでもエレナの中に恐怖心はなかった。

(絶対、帰るの)
 
 エレナは自らを奮い立たせるように、前を向く。
 決めたのだ。
 これから先、どれほどこの身や心を傷つけられたとしても、愛してくれた彼に恥じない自分であるために絶対に俯いたりしない、と。

(私は、何も奪わせないし、何一つ失わない)

 目を閉じて浮かんでくるのは真っ直ぐに自分を見つめる青灰の瞳で。
 たったひとつ、エレナがいたいと望む場所だった。
 不意にエレナは足を止め、耳を澄ます。
 微かに聞こえたソレに意識を集中させながら、

「ル……ルっ」

 泣き出しそうな声で、エレナは絞り出すようにつぶやく。
 聞き間違えるはずのないその音は、風より早く近づいてくる。
 エレナは胸に手を当て息を呑んだ後、

「ルルー!!」

 自らの居場所を伝えるように、力の限り叫んだ。
 その瞬間、空から音もなくふわりと黒い塊が落ちて来てゆっくりエレナの前に立つ。
 月の光を受けて輝く雪をおもわせる銀色の髪と青灰の瞳。真っ黒な外套をはためかせたその人。

「すまない、レナ。遅くなった」

 低く優しい声が耳に届くと同時に、エレナはその胸に飛び込む。

「へ……き、来てくれるの……分かって、た……から」

 エレナがずっと会いたかった、ルヴァル・アルヴィンその人だった。

「ああ、こんなに怪我をして」

 ルヴァルは心配そうな声でそう言いながら、エレナに自身の外套をかけてやる。伸ばされた手に頬擦りをするように顔を寄せ、ふわりと笑ったエレナは大丈夫とつぶやく。

「私、は……もう」

 大丈夫。
 あなたが来てくれたから、何も怖くなどない、と。
 だから。

「あなたのためにしか、私は歌わない」

 はっきりとそういったエレナは、ゆっくりと空気を吸い込む。
 ルヴァルとともに来た上空にいる黒い影を見上げたエレナは、魔力を込めて静かに歌を紡ぎ出す。
 もう2度と誰にもこの身は害させないし、絶対に殺されてなんかやらない。
 ルヴァルの悪夢はここで終わらせるんだ。
 そんな決意と共にエレナの歌声が夜空に響く。
 それを受けて運命の分岐点(ルート)は音を立てて変わり始めた。