壱世の口から出た女性の名前には心当たりがある。

『婚約者同伴って伝えてあるんだぞ、おい香——』
初めて彼に会った日に、市長室の中から聞こえてきた電話の相手だ。

(壱世さんの、本物の婚約者)

「今までどこで何してたんだ?」
先ほどまではあんなに近くに感じていた壱世が、急に遠くなってしまったような気がする。

「いや、べつに怒ってはいない。とにかく会って話さないか?」
彼の口振りは落ち着いていて、相手を責めるようなところもなく穏やかだ。

(ずっと連絡がつかなかったんだ。きっと心配してたんだろうな)

胡桃は自分のスマホを取り出すと、素早くメッセージを打ち込んだ。

【お忙しそうなので、先に帰りますね。今日はありがとうございました!】
そう表示させた画面を壱世に見せると、彼は「え」と驚いた表情をした。

「え、おい……あ、いや、こっちの話だ」
胡桃は電話をしたままの彼にペコリとお辞儀をすると、足早にその場を後にした。

(これで元通り)

そう考えながら家までの道のりをとぼとぼと歩く。

『全部君と一緒だったから楽しかったんじゃないかな』
(……私だってそうだけど)

パーティーの日から今日までのことを思い出す。

『お互いの結婚相手に求めるスペックみたいなものが合致したから』

(元々本物の人が戻ってくるまでって約束だったし、壱世さんが求めるスペックに合ってる人が戻ってきたんだもん。私なんかの出る幕はないでしょ)
胡桃は大きなため息をついた。

『最低限身につけていて欲しい振る舞いとか知識とか、語学力とか、容姿とか……』

「……英語くらいは、もっとちゃんと勉強しておけば良かったな」
歩きながらポツリとつぶやいた。

その夜、壱世からはあっさりとしたお礼のメッセージが届き、胡桃も社交辞令程度の返信をした。