結局、早川先生からのメッセージは未読のまま学校に来た。
今日は数学の授業が無かったから顔を合わせてはいない。


「有紗。帰ろう」
「うん! 今日はどこ行く?」
「ハンバーガー食べるとか」
「いいねー!」

伊東との件は有紗にも話さなかった。

私の態度の変化に敏感(びんかん)な有紗は、尋問(じんもん)(ごと)く問い詰めてきたが…。私は、何があっても口を開かなかった。



…せっかく元通りになってきたのに。あのことを掘り起こしたくない。




鞄を持って教室から出る時、校内放送が掛かった。


『1年2組、藤原さん。藤原真帆さん。至急、数学科準備室まで来てください』

響き渡る私の名前。


「え、真帆…呼び出し?」
「……はぁ」

職権乱用ですね。早川先生。

「早川先生?」
「…うん。有紗、ごめんね。ハンバーガーはまた行こうね」
「全然大丈夫! というか、何で溜息? 会えるの、嬉しくない?」


小声で言いながら私の肩を叩く。
それは…嬉しいけれど…。


「……その…ねっ!! ハンバーガー食べられないのが残念すぎて、ね!!!」
「あぁ、そう言うこと!? あはは、真帆ったら食いしん坊だね!! じゃあ、私は先に帰るから。先生に宜しく」
「うん、バイバイ」


教室で有紗と別れて、渋々と数学科準備室へ向かった。




物音が1つも無く、静まり返っているこの階。
私の深呼吸の音だけが、響いていた。

「……失礼します」

そっと数学科準備室の扉を開ける。

「どうぞ」

扉を開けると、カッターシャツ姿の早川先生がいた。
白衣もジャケットも着ずに、ネクタイを少し緩めて第一ボタンを開けている。


「…先生、かっこいい」
「どういうことですか」

ソファに座るよう促され、大人しく座る。
先生は少し距離を開けて隣に座った。

「ていうか、先生。校内放送しないで下さい」
「メッセージに返信をして下さらないのが悪いのです」

…それはそうだ。私が意図的に無視をしたのだから。
先生は何も悪くない。

とはいえ、校内放送はして欲しく無かったけれど。


「藤原さん。最近、授業中も上の空ですよね。何かありましたか」
「………」


先生の顔を見られない。

人はやましい事があると挙動不審(きょどうふしん)になるものだ。




まさしく…今の私がそれ。



「言えませんか?」
「…はい。言えません」



そう言って強がってみたが、我慢していた涙が溢れ出してきた。


「……先生、ごめんなさい…」


先生は一瞬驚いた顔をしたが、ポケットからハンカチを取り出して拭ってくれた。

そんな優しさにより一層、胸が苦しくなる。






「先日、伊東先生に会いました」




勇気を出して先生に伝える。私がそう言うと、先生は目を見開いた。

そして…徐々に眉間に(しわ)が寄る…。



「偶然だったのです。放課後、校内を歩いていたら…最後の挨拶をして回っている伊東先生に会ってしまいまして」


あの日か…。と早川先生は小声で呟いた。


「伊東先生に謝罪されました。そして、出会った頃から今も好きだと。そう言われました」

「……」

「勿論、私はこれまでされたことを許せませんし、何より伊東先生が有紗にしたこと、決して許せません。だから、突き放しました。止めてくれと突き放したのですが…伊東先生と出会った頃に頂いていた一目惚れの感情。これが蘇ってきてしまって…。当然、今は好きでも何でもありませんよ。ただ…もう、自分でも自分の感情が分からなくなってしまい、モヤモヤしていました…」

「…なるほど、そうですか」

「本当に私は、伊東先生の事が今も好きな訳ではありませんし、もう一生許せないのには変わりありません。ただ、こんな過去と現在が混在して…複雑な感情でいっぱいになっている今、生半可(なまはんか)な気持ちで早川先生とお会いすることは出来ません。先生の事が大好きだから。先生には…誠実で居たいから…」



そこまで言うと、早川先生は力強く抱き締めてきた。
先生の手は、小刻みに震えている。



「先生、学校です…」
「………」




無言でそのまま少し静止した後…先生はゆっくりと離れた。



「今日の夜、会えますか」
「…はい」
「仕事帰り、お迎えに行きます。家で待っていてください」

先生はそれ以上何も言わず、私を帰らせた。





先生の表情は暗く、険しかった。











家に帰ってからも色々と考えてしまって、着替えもせずにベッドに寝転んだ。

早川先生、怒ったかな。…いや、怒っているよね。

別れ話かな。
どうであれ…全て私のせいだけれども。




時刻が19時半を過ぎた頃、机に放置していたスマホが鳴った。
ベッドから降りて見に行くと、先生からメッセージが入っていた。

『もうすぐ着きます。外で待っていて下さい』

「…先生、来る。…そう言えば、着替えて無かったな」



服装は制服のままだ。
流石にこのままではまずいと思い、薄手の上着を羽織ってから部屋を出る。







「お母さん、出掛けてくるね」
「はいはい、気を付けて」



何も言わず送り出してくれるお母さん。
もう、分かっているんだろうなぁ。