ニヤニヤしながらドアを開けると、目の前に早川先生の車が停まっていた。
早川先生はラフな装いで前髪は崩しており、黒縁眼鏡を掛けていた。


ただ、表情は少し暗い。


「先生、カッコいい」
「え?」

助手席のドアを開けて乗り込む。

「黒縁眼鏡」
「よく気付きますね」
「雰囲気が全然違います。学校には掛けて来ないで下さい」
「ふふふ、どうしましょうかね」



早川先生は車を走らせ、この前も寄った海浜公園に行った。


車を降りて海に行ってみる。流石に誰もいないみたい。

「先生、お父さんが先生によろしくって言っていました」
「そうですか。また今度、お伺いしたく思います」
「それは喜びますね。さっきも、話終わったらうちに来て貰って、酒でも飲もうって言っていました。…明日は平日だからダメだよって言いましたが」
「では是非、美味しいお酒を持参して行きましょう」

早川先生はふふふっと笑ってくれた。




私は周りに誰もいないことを確認して、先生の背中に飛びついた。

「…藤原さん」
「誰もいません」
「…」

先生は体の向きを変えて正面で向き合い、力強く抱き締めてくれた。

「はぁ…久しぶりです。ずっと。こうしたかった…」
「そうですね。私も同じです」

(しばら)く抱き締めあったあと、近くのベンチに座った。

「僕、ずっと真帆さんに会いたかったです。補習の無い数学科準備室は…酷く寂しく感じました」

海の方を見ながら呟く先生。
寂しいという先生の表情は言葉の通りだ。

「先生にも寂しいという感情があるのですね…」
「…え? もしかして僕のこと、AIか何かかと思われていますか?」
「ふふ、いいえ。そうは思いませんけど、やっぱり先生って大人の男の人だから。寂しいなんて思うこと無いのかなって、勝手に思っていただけです」

先生は分かりやすく頬を膨らませて、私の頭をポンっと優しく叩いた。

「そんなこと、思っていないくせに」
「え、バレましたか?」
「顔が笑っていますよ。逆に僕ほど感情がダダ漏れの大人の方が少ないでしょう」
「自分で言うのですね」
「そう自負しております。藤原さんだって、そんな僕を見越してあのメッセージ送ってきたのでしょう?」

不機嫌そうな顔でこちらを見つめてくる。


……その件のことすっかり忘れていたな。


そういえば、さっきの私はわざと先生を不安にさせるような文章を送っていた。

「…行ってきますって言っただけですよ」
「だから。それが僕を不安にさせると言っているのです…」
「ふふふ」
「笑い事ではありません…」

不貞腐れた早川先生の表情が可愛い。
先生の手をツンツンと突くと、私の手を握られた。

「とは言え、藤原さん。本音は行くなと言いたいところですが。どうぞ、行ってきて下さい」

「え?」

唐突な心変わりにビックリした。

「…先生、不安って今言いましたよね」
「不安ですよ。それはもう、自分でも引くほど不安です。ですが、僕は藤原さんを束縛するつもりなど全くありません。それをきちんと伝える為に呼び出しました。どうか、ご理解頂きたくて」

先生は一切こちらを見ずに淡々と言う。
少し口が尖っている。先生の言葉と表情が一致していなくて面白い。

「あの日、ここでお話してくれたでしょう。…大丈夫、あの時の藤原さんの言葉をきちんと信じています」


私は無言で先生に抱きついた。

「有紗と行きますから。信じてください」
「そうですか。的場さんと一緒なら、より安心です」

どちらからとも無くお互い顔を近付けて、ゆっくりと唇を重ねた。





帰りの車の中、早川先生は伊東と青見先輩の件を切り出した。

「伊東先生と青見くんの件、ご存知だと思いますが…無事処分が下されました。…僕、今になって悪いことしたかなって思うことがあるのです。青見くんを卒業間際に退学させてしまったこと。…藤原さんはどう思いますか。僕の行動は、間違っていましたか?」

何とも難しい質問。
だけど、青見先輩と付き合えて喜んでいた有紗を間近で見ていた私。最終的にあんな裏切り方をするなんて…許せるはずが無い。

「可哀想だとは思います。だけど、それ以上に有紗が可哀想で、今も見ていて辛い時があります。…だから、先生のしたことは悪いことではありません。何も、間違っていません」
「…そうですか。ふふ、それが聞けて良かったです」

先生は運転をしながら一筋の涙を零した。





早川先生には、沢山の負担がかかっていたと容易に想像できる。
伊東が謹慎になって、4月に転任する。

生徒目線で見たらただそれだけだが、早川先生からすると、伊東が受け持っていたクラスの数学まで担当することになる。そして仕事の引き継ぎ、新年度の調整などなど、きっとやることは沢山あるだろう。


上に報告するだけでも大変だっただろうに。
先生の境遇を想像するだけで苦しさを覚える。


「先生、会いたくなったらいつでも補習を行って下さい。放課後、飛んで行きます」

そう言うと、先生は思い切り微笑んでくれた。

「教師の職権乱用ですね」
「何を今更。むしろ得意分野ではありませんか」
「そんなことありません」

微笑んだ先生の目には、また涙が滲んでいた。





先生は私の家の前で車を停めた。
そしてそっと私の両手を掴んでギュッと力を入れる。

「真帆さん。名残(なごり)惜しいですが、ここまでです。また学校でお会いしましょう」
「はい。ありがとうございました」




…寂しい。
寂しいけれど、大丈夫。




早川先生の顔から暗さは消えていた。
来た時よりも明るくなったその表情に、心の底から安心した。