数学の補習は順調に進み、再試も無事合格した。
あと1問間違えていたら不合格という、ギリギリラインだったが。合格は合格だ。



「有紗、再試合格したよ」
「良かったね! おめでとう!」

有紗は自分の事のように喜んでくれるから嬉しい。





昼休み、私と有紗はいつものように中庭に居た。
梅雨に入り雨の日も多くなったが、このベンチは(のき)のおかげで濡れない。

すっかり私たちの定位置になっていた。

「今日はお祝いだ! ジュース(おご)るよ」
「ほんと!? 嬉しい!」
「自販機行こう!」


体育館の前に設置されている自動販売機に向かう。
中庭から体育館は目と鼻の先だ。



「…あ」
「ん? どうした?」

自動販売機の前に立っている人が見える。あれは…。

「早川先生だ」
「本当だ」

風で白衣の(すそ)がなびいている。
早川先生は自動販売機でジュースを買っていた。

「いちごミルク」
「え? 早川先生、いちごミルク!?」

意外過ぎる! そう言って有紗は走って早川先生の元へ行った。

「え、ちょっと!」



「先生! こんにちは!」

突然声を掛けられた早川先生は一瞬驚いた表情をした。

「びっくりしました…。えっと、藤原さんのお友達」
「何その覚え方!!!」

私も有紗の横に立つと、早川先生は私の方を向いて少し微笑んだ。

「藤原さん、この前の再試はお疲れ様でした。無事合格しましたね」
「私の存在無視!!」

有紗は自動販売機の前に行き、ジュースを買い始めた。

「点数ギリギリでしたけどね…」

早川先生はさっき買っていた紙パックにストローを()していちごミルクを飲んだ。

風に乗って甘い香りが(ただよ)う。

「いや。良いのですよ、ギリギリでも。僕的には藤原さんの再試が不合格でも何も思いませんでしたし」
「え? それってもしかして、私には難しいから期待していないってことですか? 凄く馬鹿にしていますか…?」

伊東先生に続いてこの人も馬鹿にするのか。そう思うと怒りが沸々と込み上げてきた。

「違いますよ。藤原さん、数学に関しては理解するのに時間が掛かるのです。それがこの前の補習で分かりました。それ故に、不合格でも何も思いませんって話です。大丈夫です。また補習、お待ちしております」

へぇ…私って理解するのに時間が掛かっているのか。知らなかった。

早川先生は人を良く見ている。私自身が気付かなかったことに、あの短期間で気付いたのね…。



ていうか、待て。数学は理解するのに時間が掛かるってどういうことや。


「真帆、小学校の時から本当に数字だけはダメだったもんね」
「割と本当に、算数と数学は無理だった…」

中学校の時の記憶を呼び覚ます。

パソコン部に入っていたのにあまり部活動をしていなかった。いつも数学の先生が勉強を教えてくれていたっけ…。


「先生、真帆は中学校の時も数学だけ毎回補習だったのです。数学漬けだったんですよ」
「ちょっと、言わなくて良いよ!」
「でもその補習もまんざらでもないだったよね」
「そんなこと! 嫌すぎて死にそうだったわ!」


ギャアギャアと(うるさ)い私と有紗のやり取りを見ながら、早川先生は黙り込んで少し考えていた。


「うーん、そうですか。…因みに、藤原さんは数学が好きですか?」
「え」

突然の問いかけに驚きつつ、答えは1つしかない。

「好きじゃないです。大嫌いです」

この世から数学が無くなれば良いとまで思っていますけども。


だけどそれは早川先生に言えない。


「数学、楽しいですよ」
「私はそうは思いませんけどね…」

ふふ、と笑った早川先生はまたいちごミルクを飲んだ。

「藤原さん、飲み物買いに来たのでしょう? 僕に(おご)らせて下さい。合格祝いです」

そう言って白衣のポケットに手を突っ込む。ポケットの中からジャラジャラと小銭の音がした。

「え、先生! 私が合格祝いで真帆にジュース奢りに来たの!! 横取りしないで!」

有紗は先生の方を向いて抗議した。再試の合格祝いなんて少し恥ずかしいが、2人の優しさが胸に沁みる。

「お友達も合格祝いで奢りに来たのですか。お友達はお友達思いですね」
「ちょっと! 私は的場! 的場有紗!! 『お友達はお友達思い』って何よ!」
「何かおかしいですか?」
「……」

これはダメだ、そう言いながら有紗は首を(かし)げた。




結局、2人とも私に飲み物を奢ってくれた。どちらも(ゆず)れなかったみたい。

「先生ありがとうございます。有紗もありがとう」
「このくらいなんてことありません。ではまた補習、お待ちしております」
「待たないで下さい」

どれだけ補習に来て欲しいのよ…。早川先生は笑いながら校舎の方へ戻ろうと足を動かした。




「…あ、先生待ってください。先生って、いちごミルク好きなのですか?」

思わず…呼び止めてしまった。

「ん? 気になりますか?」
「そうですね。何だかイメージと違ったので…」

そこまで言って気付いた。私、先生にそんなこと聞いてどうするのだろう。

「ふふふ。僕こう見えて、甘い物が大好きです。補習の時、差し入れをお待ちしておりますね」
「だから何で補習する前提なのですか!」

そんな私の叫びを背に、早川先生は笑いながら校舎内に消えていった。

「え? 真帆、今度は早川先生のことが気になるの?」

ニヤニヤが止まらない有紗。状況を楽しんでいる時の目をしている。

「別に。何も思って無いし」
「えぇ~? 本心はどうかなぁ~」

有紗も校舎の方へ向かって歩き出す。
どうでもいいと思っていた早川先生の印象が変わった。

意外と良く(しゃべ)る人だ。

「…」

私は有紗に買ってもらったコーヒー牛乳と、早川先生に買ってもらったいちごミルクを胸に抱きかかえて、小走りで有紗を追いかけた。